美空ひばり、病気療養から復活へ――後援会に送った手紙には謝罪と再起 への決意。4,000回以上ステージを共にしたギタリストと担当Dが語る不死鳥の素顔に迫る80周年特番
2026年10月1日(木) 21:00~BS12にて放送。出演者:加藤和也、石井ふく子、湯藤温夫、宅間正純(制作:ひばりプロダクション)

今夜10月1日(木)よる9時放送
BS12『船越英一郎の昭和再生ファクトリー』
美空ひばり Part2「不死鳥物語」
苦難の中でも家族を思い、自らの仕事に責任を持ち、何度倒れても再び歌へと戻ってきた美空ひばり。
“不死鳥”とは、病から復活した姿だけを指す言葉ではない。
その人生を通して何度も苦難を乗り越え、最後まで歌い続けた美空ひばりの生き方だった。
美空ひばりが歩んだ、栄光の陰にあった苦難と、何度でも立ち上がり歌い続けた“不死鳥”の軌跡。
2週連続で送る美空ひばり特集の第2週は「不死鳥物語」と題し、20代後半から晩年まで、ひばりと深く関わった人々の貴重な証言を通して、歌手としてだけではない“人間・美空ひばり”の素顔に迫る。
制作はひばりプロダクション、ナビゲーターは長男でひばりプロダクション社長の加藤和也。
ステージ映像もテレビ初公開となるジャズ歌唱の秘蔵映像を含め豊富なラインナップでお届けする。
加藤和也コメント

「今回は、母の20代後半から旅立ちまでを知る方々にお話を伺い、母が仕事や人とどう向き合い、何を大切に生きてきたのかを、改めて見つめることができました。
母らしいと特に心に残ったのは、昭和62年 後援会運営の網中紀子さんに母が4ヶ月に及んだ療養を経て送った手紙と、『一生感動』と記した色紙です。そこには、体調を壊したことへの謝罪と、それでも必ず立ち直り、もう一度皆さんに喜んでもらえる舞台を務めるという強い思いが込められていました。まだ情報解禁前の東京ドームコンサートを意識し「きっと喜ばせる」という決意表明だったのだと思います。

いつもファンを最優先する母でした。僕のランドセルを指差し「それもファンの人が買ってくれた物なのよ」と言っていたのを思い出します。
元コロムビア宅間ディレクターからは、母がとても「楽な人」だったと聞きました。楽曲を提案して一度も意見も否定もなかったのは母だけだそうです。一緒に仕事をする人を信じる人だったと。ギタリストの湯藤さんからも、4,000回以上ステージを共にしながら、不慣れな初めのころから一度も演奏にダメ出しをされたことがなく不要な緊張感を持たせない人だったと伺いました。母は、それぞれのプロを信頼し、自分の役割に責任を持つ人だったのだと思います。石井ふく子先生は母のプロとしての姿勢と、『あんなにいい人はいない』という言葉で思い出の青葉台の自宅にて涙ながらに思い出を振りかえってくださいました。
記録の中の美空ひばりではなく、皆さんの言葉を通して一人の人間としての母の姿が浮かび上がります。何度苦難に遭っても立ち上がって歌い、人を信じ、ファンと家族を愛した。そんな生き方が、仕事仲間の皆さんに“不死鳥”と呼んでいただいた由縁だったのだと思います。
見どころ
◆ 美空ひばり後援会代表者たちが語るバッシング騒動の裏側と絆
まず登場するのは、今なお活動を続ける美空ひばり後援会を支えてきた、会長・網中紀子さんと大阪代表・尾松不美江さん。
語られるのは、後援会が最初で最後に主催した「美空ひばり芸能生活30周年記念 中野サンプラザ公演」の知られざる舞台裏。

当時ひばりは、弟・哲也の不祥事をめぐり、それでも弟を舞台共演から下さなかったことから、全国的に会館から公演を断られ会館を借りられないという苦難の中にあった。
そんなひばりの30周年を何とか祝いたいと立ち上がった後援会だった。今だからこそ語ることのできること。そして、東京ドーム「不死鳥コンサート」を前に、病床のひばりから後援会へ送られた手紙と色紙が初公開され、その絆と体調を壊したことへの真摯な謝罪はひばりの性格がうかがえる。


(全文)
此度私の入院中には色々と
涙の出るほどのお見舞いのお便り、千羽鶴、
数限りなき暖い愛を病床にて嬉しく拝見致して居りました。
思い起こせば九才の私が四国大杉でのバスの事故で
九死に一生を得て四十年、自分の選びました道を
ただひたすら走って参りました。
でもその気力と体力とが四十一年目にして、
この様な結果を生みました事は、
私の不注意の罰と受け止めて居ります。
何よりもファンの皆様に悲しい思いをさせました事、
申し訳なく思います。
このつぐないは、やはりひばりが再び元気な姿で
もう一度皆様の前で歌うことだ!! と、
毎日私の頭の中でその姿を思い浮べて居ります。
御存知の通り、先日のレコーディングも無事終り、
ワンステップ!!
自信が少し出て来ました。
後は、皆んなで頂けるお仕事を一つ一つ用心深く、
消化してゆくつもりです。
六十三年度は、こんな形になってしまい残念ですが、
又今度こそ翔ばたき始めるひばりは、
もう誰れも追いつけない!!
大きな覚悟でスタートしなければ、
私を愛し今日まで守って下さったファンの皆さんに
叱られてしまいますものネ!!
そんな頑張り屋のひばりが皆さんは大好きなのではないかと思います。
きっと…きっと…ひばりは決して裏切ることはないでしょう。
その事を胸に刻みながら毎日治療に専念して居ります。
今、私の好きな言葉をお知らせして筆をおきます。
「一生感動!!」
六十三年度のひばりをお待ち下さい。
美空ひばり
昭和62年11月2日
◆美空ひばりと4,000回以上ものステージを共にしたギタリスト・湯藤温夫さん。

「ひばりさんから演奏について意見をされたことは、一度もなかった」
バンドに加わった当初、自分では決して十分な演奏ができていたとは思わなかったという。しかしひばりは注文をつけることなく、互いの呼吸が合うまで待っていてくれた。
緊張感の中で折れてしまうミュージシャンもいたといわれる一方、湯藤さんは、必要以上の緊張を強いることのないひばりのもとで、のびのびと演奏することができたという。
ひばり亡き後、ほかの歌手の伴奏にも何度か取り組んだ。しかし、どうしても気持ちが入らなかった。
「今でも私の軸は、ひばりさん。いつまでも」
長年ひばりの歌を最も近くで支え続けた演奏家だからこそ語れる言葉とともに、阿吽の呼吸が読み取れる、日本武道館コンサートでの「悲しい酒」を送る。
◆『愛燦燦』『みだれ髪』『川の流れのように』など、晩年を担当した元日本コロムビアディレクター・宅間正純氏が登場。

宅間氏が振り返るひばりは、意外にも「非常に楽な人だった」という。
新しい楽曲を持って行き、「次はこの歌を歌ってください」と伝えて、意見を言われたり断られたりすることは一度もなかった。
ひばりは、それぞれの立場の仕事を尊重し、その道のプロが決めたことを信頼する人だったという。
そんなひばりが、ただ一度、自ら楽曲について希望を伝えたことがあった。
シングルを別の楽曲で進めていたところ、ひばり本人から「『川の流れのように』にしてもらいたい」と申し出があり、急遽変更されたという。
それが、美空ひばり最後のシングルとなり、今なお世代を超えて歌い継がれる『川の流れのように』となった。

また、ジャズプレーヤーの父のもとで育ち、幼い頃から4ビートのリズムが体に染み込んでいたという宅間氏は、帝国ホテルでひばりが歌った4ビートのジャズに「度肝を抜かれた」と振り返る。
演歌、歌謡曲だけでは語り尽くすことのできない、美空ひばりの圧倒的な音楽性。その4ビートを歌う貴重な記録映像も、今回テレビ初公開される。
◆美空ひばりと晩年深い交流を重ねたプロデューサー・石井ふく子氏。

「こんなに性格のいい人はいない。こんなにいい人はいない」
プロとしての姿勢、舞台に懸ける気迫、そして友人ながらに一人の女性としてのひばりの人柄を、涙と共に語る。

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