5300年前の〝謎の巨大円形建築“と〝周壁”を発見
農耕文明とは別の都市誕生の証拠か!?
ノートルダム清心女子大学 紺谷亮一教授(文学部現代社会学科・考古学)、徳島大学 山口雄治准教授(大学院社会産業理工学研究部社会総合科学域・考古学)をはじめとする研究グループは、人類史における都市の起源を探るため、フィクリ・クラックオウル氏(トルコ共和国・アンカラ大学言語・歴
史・地理学教授・考古学、キュルテペ遺跡発掘調査隊長)と共同で、トルコ・キュルテペ遺跡で 2015
年より発掘調査を開始しました。今回は 2025 年に行った研究発表の続報である最新研究成果をお伝えいたします。
<発表のポイント>
1. 西アジア地域では人類史上初めて都市が生まれましたが、その要因をめぐる調査・研究は主にメソポタミア地方で行われてきました。「都市の誕生は、南メソポタミアのティグリス、ユーフラテス川流域の乾燥地帯で灌漑農耕が営まれ、豊かな農業地帯が広がったことが要因だ」と一般的には説明されています。近年では、人類最古の都市は北メソポタミアの天水農耕地帯に出現したという説も浮上していますが、農耕を基盤として成立するという点では南メソポタミアと似たような説明といえます。一方で、同じ西アジア地域でもメソポタミア以外の地域ではどのように都市が誕生したのか、その状況がよくわかっていません。
2. 我々日本隊は、2008 年からトルコ共和国中央部カイセリ県(カッパドキア地域)にて遺跡踏査を行い、約 130 遺跡を発見・登録しました。これらを分析した結果、希少資源の交易によって都市社会が成立・維持された、というメソポタミア地方とは異なる都市誕生メカニズムを仮説として提唱しました。しかし、具体的な考古資料を欠いた状態でした。
3. 2015 年からは、同県にあるキュルテペ遺跡(ユネスコ世界遺産暫定リスト・世界記憶遺産)において未発掘区域の発掘調査を開始し、2021 年に紀元前 3300 年前後の大規模建築址を検出しました。当該建築址は大規模であるだけでなく、ジグザグ形を呈する特異なものです。本例はトルコ中央部最古の事例になるとともに、トルコにおける都市出現の時期が、メソポタミアにおける都市出現期まで遡る可能性を示す証拠といえます。これはすなわち、メソポタミア地方における都市出現期に、トルコ中央部において想像を超える巨大建築物があったことを示します。人類史における都市誕生の要因は農耕という一元的なものではなく、多元的であったと示唆されます。
4. 2025年度はこの建築址の東側において深さ3mを超える巨大な周壁の一部を発見しました。前回リリースの際、地形的に当該建築は遺跡中央部の高台に形成されており、また建築プラン等から総合的に判断すると、「当該建物は、遺跡中央部高台を囲む、直径100mにおよぶ超巨大建築址である可能性がでてきた」と報告しました。今回の調査成果はこの仮説を大きく補強するものです。
■ 発表内容
<現状>
人類史においてメソポタミア地方(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた平野部)は、ウルク遺跡等、最初に都市が誕生した地域とされています。それは、今から約 5000 年前の後期銅石器時代に相当します。年間降水量が 200mm に満たない当地域では、大河の水を利用する灌漑農耕を発達させるしかありません。その為には、農地に、川から人為的に用水路を引いてくる必要があります。そして大規模な人的土木工事と水の管理が重層的な社会階層を生み出し、支配者・聖職者・軍人・市民・奴隷の出現を促したとされています。この都市成立モデルは教科書でも取りあげられ、世間一般にも広く流布しています。近年では、テル・ブラク遺跡等、天水農耕を主体とした北メソポタミアでこそ人類最古の都市が誕生したとの仮説も唱えられていますが、農耕を基盤として都市が成立するという点ではこれまでと似たような説明モデルといえます。その一方で、同じ西アジア地域でありながらメソポタミア以外の地域では、どのように都市が誕生したのか、その状況がよくわかっていませんでした。つまり、都市誕生の議論は「メソポタミアの範疇」を超える事はほとんどなかったのです。
<研究成果の内容>
紺谷亮一、山口雄治の日本隊は、フィクリ・クラックオウル(トルコ共和国アンカラ大学教授・キュルテペ遺跡発掘調査隊長)らの支援を受けて、西アジアにおける多様な都市誕生要因を探るために、2008 年からトルコ中央部に位置するキュルテペ遺跡(トルコ最大級の規模を持つ大規模遺跡・ユネスコ世界遺産暫定リスト・世界記憶遺産)とその周辺地域の調査を開始しました。本調査により、都市誕生期(後期銅石器~前期青銅器時代)における本地域の遺跡分布パターンは、メソポタミア地方とは大きく異なる事が判明しました。そして、遺跡踏査時に発見したスズ鉱山関連遺跡等の存在から、主として鉱物等希少資源の交易によって都市社会が誕生したのではないかという可能性を提示しました(Kontani et al.2014、紺谷・クラックオウル 2022)。しかし、遺跡の内容と分布状況から都市の誕生を考察するには限界があり、具体的な遺跡の発掘調査による考古学資料の発見とその研究が次なる課題として挙がりました。
こうした一連の調査・研究と問題意識から、2015年からキュルテペ遺跡の発掘調査に着手しました。そして、2021年から開始した新たな発掘調査区において、学界で農耕開始期と都市出現期を結ぶミッシングリンクとされてきた後期銅石器時代文化層をついに確認しました。特に紀元前3300年前後の一辺26m以上を測り、厚さ約1.3mもの日干しレンガ壁をもつジグザグ形の大規模建築址は注目に値します。繰り返しになりますが本例はトルコ中央部最古の事例になるとともに、トルコにおける都市出現の時期が、メソポタミアにおける都市出現期(前4千年紀)まで遡る可能性を示す証拠といえます。これはすなわち、メソポタミア地方における都市出現期に、トルコ中央部において想像を超える巨大建築物があったことを示します。人類史における都市誕生の要因は農耕という一元的なものではなく、多元的であったと示唆されます。
2025 年度の調査では当該建築址東側で深さ3mを超える周壁の一部を確認しました。周壁の斜度は約 25度です。周壁は円形を呈し、直径100mに及ぶプランである可能性が高まりました。この事は前回記者発表時点での我々の仮説を裏付けるものです。但し、現段階では、この周壁が防御を目的としたものかどうかについては判断できません。少なくとも当該時期のトルコ中央部ではこれほど大規模な建物や周壁は今まで確認されていません。さらに、当該建築址には埋納土器が多く付随し、何らかの儀礼と関わりがある特徴が見られます。
我々が2008年から開始したカイセリ県内遺跡分布調査では、当該時期、つまり後期銅石器時代に属する遺跡は少なく、いずれも小規模なもので都市レベルではありませんでした。つまり、キュルテペ遺跡が突出して大規模である事が改めてわかります。西アジア考古学では、農耕を基盤とした都市誕生のセオリーが一般的ですが、はたしてキュルテペ遺跡においては、このセオリーが適用できるのでしょうか。キュルテペ遺跡の調査成果は、こうした西アジア考古学における一つの常識に疑問を投げかけるものとなっています。
<社会的な意義>
西アジア考古学は、地域史を超えて人類史を語る上で不可欠な学問分野です。この学問は、近代欧米諸国の研究者が礎をつくりましたが、一方でそれは当該地域への植民地主義と深く関わってきました。我々日本人はこの点については、全くの部外者です。おそらく欧米研究者より客観的視野に立って研究できる素養は持ち合わせています。残念ながら、今まで西アジア考古学界に日本人が大きく寄与する場面は、あまりありませんでした。本研究はこの流れを変え、世界の西アジア考古学における日本隊のプレゼンスを高めるポテンシャルを持っています。
■論文情報
論文名:「中央アナトリアにおける銅石器時代解明へ向けて-キュルテペ遺跡中央トレンチ発掘調査(2025 年)-」
掲載紙:2026『第 33 回西アジア発掘調査報告会報告集』日本西アジア考古学会 著者:紺谷亮一・山口雄治・フィクリ・クラックオウル
論文名:Discovering the Late Chalcolithic Period at Kültepe: Excavation of the Central Trench (2021-2022)
掲載紙:Subartu(2024 年刊行済)
著者:Fikri Kulakoğlu, Ryoichi Kontani & Yuji Yamaguchi
■研究資金
本研究は、日本学術振興会科学研究費(JSPS 科研費 JP24K04360、JP24H00098)、ノートルダム清心女子大学学内研究費の支援を受けて実施しました。
■謝辞
現地調査にあたり、フィクリ・クラックオウル(Fikri KULAKOĞLU)氏、アンカラ大学、トルコ共和国文化観光省に感謝申し上げます。




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