昭和の日本人は何をフロンティアとし、何を求めたのか—。国立公文書館で展示会を開催!
昭和100年記念特別展「昭和の日本人とフロンティア―南極・深海・宇宙への挑戦―」のご案内
独立行政法人国立公文書館(所在地:東京都千代田区、館長:鎌田 薫)は、令和8年3月20日(金・祝)~5月24日(日)の間、令和8年春の特別展 昭和100年記念特別展「昭和の日本人とフロンティア―南極・深海・宇宙への挑戦―」を開催いたします。
昭和への改元に際し、元号の出典は「百姓昭明、協和万邦」とされ、諸外国との協和が唱えられていました。当時の日本人は欧米諸国にならい、未踏の地や未知の領域=フロンティアを目指し、対外進出や軍事を中心とした先端技術の開発を進めました。しかし、日本は第二次世界大戦に敗れ、占領下で軍事技術の開発などを制限されました。
昭和27年(1952)、連合国による日本の占領が終わりを告げ、自ら再び広大な世界に向き合った時に、日本人は何をフロンティアとし、そこに何を求めたのか。本展示では、当館所蔵資料の中から、南極・深海・宇宙への探求に関連する資料をご紹介します。
昭和100年を迎えた現在、技術の発達やインターネットの普及によって「未知」が減少し、フロンティア探求のモチベーションも低下しています。南極・深海・宇宙という人類未踏の領域に対して昭和の日本人が挑んだ姿は、私達に現代を生き抜くための活力を与えてくれるはずです。

昭和100年記念特別展「昭和の日本人とフロンティア―南極・深海・宇宙への挑戦―」見どころ
南極観測
20世紀初頭、未踏の地だった南極の調査が各国で行われるようになります。日本においては、明治45年(1912)に白瀬矗(しらせのぶ)を中心とした白瀬探検隊が日本人として初めて南極に到達し調査を行いました。しかしこの後、日本では長く南極調査は行われませんでした。

日本が再び南極を目指すことになるのは、終戦後の昭和30年(1955)のことでした。同年11月4日、政府は1957~1958年に行われる国際地球観測年に参加し、南極観測を行うことを閣議決定します。翌昭和31年11月には南極観測船「宗谷」が日本を出発し、昭和32年1月に観測隊が東オングル島に上陸。昭和基地を建設し、越冬を実現しました。
しかし、昭和35年度の第5次観測隊が派遣された際、第6次観測隊をもって調査終了が決定し、昭和37年には昭和基地も閉鎖されるという危機をむかえました。その後、日本学術会議を中心に観測再開を望む声が高まり、政府は昭和38年に再開を決定しました。昭和40年の第7次観測隊では新観測船「ふじ」を建造し、本格的に南極観測に取り組んでいくことになります。以後、今日まで南極観測は継続的に行われ、観測船「しらせ」(初代、2代目)の運用などを経て、様々な成果をあげています。

深海調査
第二次世界大戦後、海洋石油資源の探索がはじまり、各国で海洋開発が本格的に行われるようになりました。日本でも海洋資源活用の機運が高まりましたが、当時の海洋科学技術は諸外国に比べ立ち遅れている状況にありました。この事態を打開するため、昭和36年(1961)に海洋科学技術審議会が設けられました。同審議会は、海洋科学技術推進の基本方針、当面の必要な措置、具体的な調査研究項目などを答申。これに基づき技術開発が進められました。特に深海の観測調査の分野では、他の潜水技術の開発とともに、潜水調査船の開発が提言されたことから、昭和42年から水深600mまで潜航可能な潜水調査船の建造が開始されました。翌昭和43年に完成したその船は、「しんかい」と名付けられ、日本の本格的な深海調査の幕開けを飾りました。

昭和46年、海洋開発における官民の協力体制を構築し、研究開発の中心となる組織として海洋科学技術センターが設立されると、海洋科学技術審議会も海洋開発審議会へと組織を改めました。一方、深海調査の分野では、大陸棚の調査のため水深6000mを調査可能な潜水調査船が求められることになりました。昭和51年、水深6000mの中間段階として、まずは水深2000mを調査可能な潜水調査船を開発することとなり、昭和56年に「しんかい2000」が完成しました。「しんかい2000」は、相模湾で化学合成を行う深海生物や沖縄トラフでの熱水噴出現象を発見するなど深海研究の発展に貢献しました。また「しんかい2000」で得られた技術や経験が、その後開発された「しんかい6500」などに活かされていきました。

宇宙開発
日本のロケット開発の先駆者である東京大学の糸川英夫は、航空工学を学び、戦中は戦闘機の開発などに関わりました。敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により航空関係の研究開発が禁じられると、日本の航空分野の技術は、世界から立ち遅れたものとなります。こうした逆境の中で、糸川はジェットエンジンとは異なる移送手段としてロケットに注目します。昭和33年(1958)、糸川のロケットは国際地球観測年の一部としてロケットを用いた観測に利用されることになりました。その後、開発の舞台は、鹿児島県内之浦(うちのうら)の発射場へと移ります。内之浦の発射場からは、昭和45年に、日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げ成功という快挙が成し遂げられました。

政府主導のロケット開発は、東京大学のロケット開発とは別の系譜をたどりました。科学技術庁の宇宙開発推進本部は、国の宇宙開発政策にそって国産のロケットや人工衛星の開発を目指しました。当初は東京都新島(にいじま)の自衛隊基地を利用して打上げ実験を行っていましたが、昭和41年に鹿児島県種子島(たねがしま)に打上げ施設を設置します。昭和44年には、より強靭な推進体制として宇宙開発事業団(NASDA)が発足。同組織はアメリカの技術導入に踏み切り、N-Iロケットの開発に着手し、昭和50年9月9日、N-Iロケットにより技術試験衛星「きく1号」の打上げに成功しました。昭和56年からは、より大きな積載重量をもち、自主開発する部分も多くしたH-Iロケットの開発に着手し、昭和61年8月に1号機を打上げました。
現在、これら2つの開発系統は統合され、宇宙航空研究開発機構(JAXA)として日本の宇宙開発で中心的な役割を果たしています。

関連イベントについて
クイズを通して会場をめぐり、誰でも展示の見どころを楽しむことができる「まなびシート」の配布のほか、特別展をさらに深く楽しめるイベントを実施予定。参加費無料。詳細は決まり次第、当館HP、SNSでお知らせします。

【開催概要】
タイトル :「昭和の日本人とフロンティア―南極・深海・宇宙への挑戦―」
協力 :国立極地研究所、一般社団法人千代田区観光協会
開催期間 :令和8年3月20日(金・祝)~5月24日(日)
※土日祝日開館、月曜及び5月7日(木)は休館
開催地 :国立公文書館 東京本館1階展示ホール
〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園3-2
アクセス :東京メトロ東西線 竹橋駅下車 1b出口 徒歩5分
開催時間 :午前9時15分~午後5時00分
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