【岡山県】平成30年度日本遺産に「「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」が新規認定されました!
■ストーリーの概要
いにしえに吉備(きび)と呼ばれた岡山。この地には吉備津彦命(きびつひこのみこと)による温羅(うら)と呼ばれた鬼を退治した伝説が語り継がれ、昔話桃太郎の原型になったとされる。伝説では、絶壁にそびえる古代山城は温羅の居城とされ、約1800年前の巨大墓に立ち並ぶ巨石は命(みこと)の楯(たて)となった。戦いの後、勝利した命(みこと)は巨大神殿に祀られ、敗れた温羅の首はその側に埋められ、この地で吉凶を占っている。
鬼退治伝説は古代吉備の繁栄と屈服の歴史を背景として生み出され、伝説の舞台となった吉備の多様な遺産は、今も訪れる人々を神秘的な物語へと誘ってくれる。
いにしえに吉備(きび)と呼ばれた岡山。この地には吉備津彦命(きびつひこのみこと)による温羅(うら)と呼ばれた鬼を退治した伝説が語り継がれ、昔話桃太郎の原型になったとされる。伝説では、絶壁にそびえる古代山城は温羅の居城とされ、約1800年前の巨大墓に立ち並ぶ巨石は命(みこと)の楯(たて)となった。戦いの後、勝利した命(みこと)は巨大神殿に祀られ、敗れた温羅の首はその側に埋められ、この地で吉凶を占っている。
鬼退治伝説は古代吉備の繁栄と屈服の歴史を背景として生み出され、伝説の舞台となった吉備の多様な遺産は、今も訪れる人々を神秘的な物語へと誘ってくれる。
■タイトル
「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま ~古代吉備の遺産が誘(いざな)う鬼退治の物語~
■ストーリー
1 温羅(鬼)退治の伝説
いにしえに「吉備(きび)」と呼ばれた岡山の南部にある山には、そそり立つ絶壁の上に石垣が残る城がある。ここ一帯では、急峻な山容、そして岩が露出しそびえ立つ山肌など、人を寄せつけず周囲ににらみをきかせているような情景が広がっている。この山は「鬼城山(きのじょうさん)(鬼ノ城)」と呼ばれ、その名の通り温羅と呼ばれる鬼の居城とされている。
鬼城山から南の平野に降りると、小高い丘の頂に、突然、巨石群が現れる。古代遺跡のストーンサークルを思わせる不思議な5つの巨石がそびえ立ち、あたかも戦いのときに使った巨大な楯のようである。この丘は「楯築遺跡(たてつきいせき)」と呼ばれ、温羅が放った矢を防ぐためのものとされている。
「鬼」と「戦い」をイメージさせるこの地には、まさしく鬼退治「吉備津彦命による温羅退治」の伝説が残る。
その昔、岡山(吉備)平野が吉備の児島に囲まれた内海だったころ、人の身の丈をはるかに超える温羅と呼ばれる鬼は、平野を見下ろす山の上に城を築き、村人を襲い悪事を重ねていた。大和(やまと)の王から温羅退治の命令を受けた吉備津彦命は、吉備の地に降り立ち、吉備の中山に陣を構え、その西の小高い丘の頂には温羅の矢を防ぐ巨石の楯を築いた。弓の名手であった命は、岩に矢を置き温羅に向かって矢を放つ。温羅も応戦し城から矢を放つが、互いに放った矢は何度も喰い合って落ちていった。しかし、命が力を込めて放った矢は、ついに温羅の左目を射抜く。温羅の目からは血が吹き出し、川のように流れたという。たまらず雉(きじ)に化けて逃げる温羅を、鷹になった命が追う。温羅は雉から鯉に化けて血の流れる川に逃げたが、命は鷹から鵜となり、鯉を喰い上げ、見事に温羅を退治した。
これら伝説の舞台は、それぞれ「鬼城山」、「吉備の中山」、「楯築遺跡」、「矢置岩(やおきいわ)」、「矢喰宮(やぐいのみや)」、「血吸川(ちすいがわ)」、「鯉喰(こいくい)神社」として、現在も語り継がれている。また、温羅が生け贄をゆでた鬼の釜、命が空を移動するために使った乗り物など、伝説ゆかりの道具もこの地に残っている。
温羅を退治した吉備津彦命は神として祀られた。吉備津神社と吉備津彦神社は、命が陣を構えその墓がある吉備の中山の麓にあり、吉備津神社には、鳥が翼を広げる姿に見える屋根の巨大本殿をはじめ、約400mもある長大な回廊や650年以上前の門などの建造物が現存し、本殿の北東部の艮御崎宮(うしとらおんざきぐう)では温羅も祀られ、温羅の顔を思わせる鬼面も伝わっている。
過去に災いをもたらしていた温羅であったが、やがてこの地の吉凶を告げる使いとなった。命(みこと)がはねた温羅の首は、夜になると不気味なうなり声を上げ、命は御釜殿(おかまでん)の釜の下深くに埋めたが、それでもうなり声はおさまらなかった。ある日、命の夢に温羅が現れ、自分の妻がこの釜を使って米を炊くようにすれば、自身が命の使いとなり釜の音で世の吉凶を占うと告げ、命は温羅の言うとおりにしたという。
「ヴォーン、ヴォーン」とまるで鬼がうなっているように聞こえる釜の音。今も御釜殿では、この音で願いが叶うかを占う「鳴釜神事(なるかましんじ)」が執り行われている。また、この吉備津神社では、毎年1月3日、吉備津彦命が温羅との戦いに矢を置いたとされる「矢置岩」の前で空に矢を放つ「矢立(やたて)の神事」も行われ、初詣の参拝客の目を楽しませている。
2 伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力 -巨大な墓-
古代吉備は、大和に匹敵する勢力を誇っていた。しばしば大和と対抗し屈服したことが『日本書紀』や『古事記』からうかがえ、吉備津彦命と温羅との戦いは、実は大和と吉備の対立を反映したものといわれる。
吉備勢力の強大さを物語るのは、かつての王たちの墓である。温羅伝説にも登場する約1800年前に築かれた楯築遺跡は、同時期の墓としては日本最大級であり、これに続く時期の鯉喰神社一帯の墓も巨大である。また、墓での祭りに使用された円筒形の土器は、この地方で使われ始めたもので、のちに古墳で行われた祭りの道具である埴輪の原型となった。さらに、5世紀代の造山(つくりやま)古墳・作山(つくりやま)古墳・両宮山(りょうぐうざん)古墳は、近畿の天皇陵古墳に匹敵する規模を誇り、小高い山と見間違うほどである。自由に登ることができるため、その巨大さを体感でき、あたかも祭壇のような段造りの様子や水濠で囲まれた形も見ることができる。
今も残る巨大な墓は、古くから文化が花開き、強大な勢力が存在していたこの地の繁栄を感じさせてくれる。
3 桃太郎の原型
古くから語り継がれてきた吉備津彦命による温羅退治の伝説は後世に引き継がれ、昔話の桃太郎による鬼退治の原型となったとされる。この昔話は、川を流れてきた大きな桃から生まれた桃太郎が、村を荒らし悪さをする鬼と戦うために、道中で家来となった犬、猿、雉とともに鬼を退治する物語である。
桃太郎の名の由来となった桃は、古来より魔よけの道具として使われた。吉備の地は、晴天の多い温暖な気候に恵まれ、古くから桃が栽培されてきた。桃太郎が犬、猿、雉を従えるために与えた「きびだんご」の原料の黍(きび)は、吉備の地名に由来するともいわれ、今では岡山土産の代表となっている。また、桃太郎の家来の犬、猿、雉は、「犬飼」の名前などで、今もこの地に残っている。このような岡山の気候、風土、歴史と温羅退治の伝説とが密接に結びつき、桃太郎はこの地で生まれた。
遠く瀬戸内海まで見渡せる鬼城山の絶壁から眼下を望めば、古くから護り伝えられた巨大古墳などの多様な遺産と、ほかでは見ることのできない吉備津彦命と温羅の戦いの世界が広がり、吉備の地を訪れる人々を神秘的な物語へと誘(いざな)ってくれる。
「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま ~古代吉備の遺産が誘(いざな)う鬼退治の物語~
■ストーリー
1 温羅(鬼)退治の伝説
いにしえに「吉備(きび)」と呼ばれた岡山の南部にある山には、そそり立つ絶壁の上に石垣が残る城がある。ここ一帯では、急峻な山容、そして岩が露出しそびえ立つ山肌など、人を寄せつけず周囲ににらみをきかせているような情景が広がっている。この山は「鬼城山(きのじょうさん)(鬼ノ城)」と呼ばれ、その名の通り温羅と呼ばれる鬼の居城とされている。
鬼城山から南の平野に降りると、小高い丘の頂に、突然、巨石群が現れる。古代遺跡のストーンサークルを思わせる不思議な5つの巨石がそびえ立ち、あたかも戦いのときに使った巨大な楯のようである。この丘は「楯築遺跡(たてつきいせき)」と呼ばれ、温羅が放った矢を防ぐためのものとされている。
「鬼」と「戦い」をイメージさせるこの地には、まさしく鬼退治「吉備津彦命による温羅退治」の伝説が残る。
その昔、岡山(吉備)平野が吉備の児島に囲まれた内海だったころ、人の身の丈をはるかに超える温羅と呼ばれる鬼は、平野を見下ろす山の上に城を築き、村人を襲い悪事を重ねていた。大和(やまと)の王から温羅退治の命令を受けた吉備津彦命は、吉備の地に降り立ち、吉備の中山に陣を構え、その西の小高い丘の頂には温羅の矢を防ぐ巨石の楯を築いた。弓の名手であった命は、岩に矢を置き温羅に向かって矢を放つ。温羅も応戦し城から矢を放つが、互いに放った矢は何度も喰い合って落ちていった。しかし、命が力を込めて放った矢は、ついに温羅の左目を射抜く。温羅の目からは血が吹き出し、川のように流れたという。たまらず雉(きじ)に化けて逃げる温羅を、鷹になった命が追う。温羅は雉から鯉に化けて血の流れる川に逃げたが、命は鷹から鵜となり、鯉を喰い上げ、見事に温羅を退治した。
これら伝説の舞台は、それぞれ「鬼城山」、「吉備の中山」、「楯築遺跡」、「矢置岩(やおきいわ)」、「矢喰宮(やぐいのみや)」、「血吸川(ちすいがわ)」、「鯉喰(こいくい)神社」として、現在も語り継がれている。また、温羅が生け贄をゆでた鬼の釜、命が空を移動するために使った乗り物など、伝説ゆかりの道具もこの地に残っている。
温羅を退治した吉備津彦命は神として祀られた。吉備津神社と吉備津彦神社は、命が陣を構えその墓がある吉備の中山の麓にあり、吉備津神社には、鳥が翼を広げる姿に見える屋根の巨大本殿をはじめ、約400mもある長大な回廊や650年以上前の門などの建造物が現存し、本殿の北東部の艮御崎宮(うしとらおんざきぐう)では温羅も祀られ、温羅の顔を思わせる鬼面も伝わっている。
過去に災いをもたらしていた温羅であったが、やがてこの地の吉凶を告げる使いとなった。命(みこと)がはねた温羅の首は、夜になると不気味なうなり声を上げ、命は御釜殿(おかまでん)の釜の下深くに埋めたが、それでもうなり声はおさまらなかった。ある日、命の夢に温羅が現れ、自分の妻がこの釜を使って米を炊くようにすれば、自身が命の使いとなり釜の音で世の吉凶を占うと告げ、命は温羅の言うとおりにしたという。
「ヴォーン、ヴォーン」とまるで鬼がうなっているように聞こえる釜の音。今も御釜殿では、この音で願いが叶うかを占う「鳴釜神事(なるかましんじ)」が執り行われている。また、この吉備津神社では、毎年1月3日、吉備津彦命が温羅との戦いに矢を置いたとされる「矢置岩」の前で空に矢を放つ「矢立(やたて)の神事」も行われ、初詣の参拝客の目を楽しませている。
2 伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力 -巨大な墓-
古代吉備は、大和に匹敵する勢力を誇っていた。しばしば大和と対抗し屈服したことが『日本書紀』や『古事記』からうかがえ、吉備津彦命と温羅との戦いは、実は大和と吉備の対立を反映したものといわれる。
吉備勢力の強大さを物語るのは、かつての王たちの墓である。温羅伝説にも登場する約1800年前に築かれた楯築遺跡は、同時期の墓としては日本最大級であり、これに続く時期の鯉喰神社一帯の墓も巨大である。また、墓での祭りに使用された円筒形の土器は、この地方で使われ始めたもので、のちに古墳で行われた祭りの道具である埴輪の原型となった。さらに、5世紀代の造山(つくりやま)古墳・作山(つくりやま)古墳・両宮山(りょうぐうざん)古墳は、近畿の天皇陵古墳に匹敵する規模を誇り、小高い山と見間違うほどである。自由に登ることができるため、その巨大さを体感でき、あたかも祭壇のような段造りの様子や水濠で囲まれた形も見ることができる。
今も残る巨大な墓は、古くから文化が花開き、強大な勢力が存在していたこの地の繁栄を感じさせてくれる。
3 桃太郎の原型
古くから語り継がれてきた吉備津彦命による温羅退治の伝説は後世に引き継がれ、昔話の桃太郎による鬼退治の原型となったとされる。この昔話は、川を流れてきた大きな桃から生まれた桃太郎が、村を荒らし悪さをする鬼と戦うために、道中で家来となった犬、猿、雉とともに鬼を退治する物語である。
桃太郎の名の由来となった桃は、古来より魔よけの道具として使われた。吉備の地は、晴天の多い温暖な気候に恵まれ、古くから桃が栽培されてきた。桃太郎が犬、猿、雉を従えるために与えた「きびだんご」の原料の黍(きび)は、吉備の地名に由来するともいわれ、今では岡山土産の代表となっている。また、桃太郎の家来の犬、猿、雉は、「犬飼」の名前などで、今もこの地に残っている。このような岡山の気候、風土、歴史と温羅退治の伝説とが密接に結びつき、桃太郎はこの地で生まれた。
遠く瀬戸内海まで見渡せる鬼城山の絶壁から眼下を望めば、古くから護り伝えられた巨大古墳などの多様な遺産と、ほかでは見ることのできない吉備津彦命と温羅の戦いの世界が広がり、吉備の地を訪れる人々を神秘的な物語へと誘(いざな)ってくれる。
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