「人生における意味や目的」が循環器疾患の発症リスクを抑制する
~英国公務員の5年間にわたる大規模縦断調査で明らかに~
順天堂大学医学部公衆衛生学講座の野田愛特任准教授、谷川武教授らの研究グループは、英国ロンドンで働く公務員を対象とした大規模な縦断研究(*1)のデータを用いた調査分析により、ポジティブな心理状態(学術的に「心理的ウェルビーイング*2」と呼ばれる)の要素である「人生における意味や目的」と循環器疾患の発症リスクとの関連性を分析し、高齢男性においては、心理的ウェルビーイングによる動脈硬化の抑制効果が認められること、さらに、5年経過後も効果が持続することがわかりました。本研究結果により、人生における充足感や充実感といった心理的ウェルビーイングのレベルを高めることが、人口の高齢化が進む現代社会においての循環器疾患予防に役立つと期待されます。本研究は、米国の医学雑誌「Hypertension」に掲載されました。
本研究成果のポイント
背景
我が国において、脳血管疾患ならびに心血管疾患を含む循環器疾患は、主要死因であるだけでなく、寝たきりにつながる主な要因であり、 医療費に占める割合は第1位となっています。人口の高齢化が今後一層進行し、医療費がさらに増大し続ける我が国において、循環器疾患の発症リスクを低下させ、寝たきりを減少させることは重要な課題です。
このような背景のもと、ストレスが多い現代社会において、うつ等のネガティブな感情が循環器疾患へ与える影響について多くの研究が進められていますが、ポジティブな感情との関連については、ほとんど研究されてきませんでした。とくに、ポジティブな感情のもととなる自らの人生を生きるに値するものとするための「意味(meaning)」や「目的(purpose)」といった要素と循環器疾患のリスクとに関連があるのかについてよくわかっていませんでした。そこで、研究グループは、ポジティブな感情である心理的ウェルビーングと循環器疾患の発症リスクとの関連を明らかにすることを目的とし、本研究を行いました。
内容
本研究では、英国ロンドン中心部で働く公務員を対象とした長期的で大規模な縦断研究(ホワイトホールⅡ研究)のデータを用いて動脈硬化の進展について分析することで、心理的ウェルビーイングと循環器疾患の発症リスクとの因果関係について検討しました。ホワイトホールⅡ研究は、英国ロンドンの公務員を対象に1985年に開始され、4~5年ごとのアンケート調査と様々な臨床検査による追跡調査が進められています。 今回、2007~2009年の間を本研究の基準時として設定し、心理的ウェルビーイングに関しCASP-19 (*3)を用いて調査分析を行いました。CASP-19は心理的ウェルビーイングを「人生の喜びや楽しみ」、「コントロール」、「自律性」、「自己実現」の4つの領域に定義していますが、今回の研究では、 「人生の喜びや楽しみ」の項目は、へドニア・ウェルビーイング(「快楽」を感じる状態)の指標として用い、他の3つの領域の項目はユーダイモニア・ウェルビーイング(「人生における意味・目的」を感じる状態)の指標として用いました。動脈硬化を表す指標である大動脈脈波伝播速度( PWV ;Pulse Wave Velocity) については、基準時(2007~2009年)と5年後(2012~2013年)の測定値を用いました。本研究では、基準時に脳血管疾患または心血管疾患の既往がなく、CASP-19に回答し、基準時か5年後のどちらかでPWVの測定を行った4754名(平均年齢65.3歳、男性:3466名、女性:1288名)を対象とし、心理的ウェルビーイングと5年間のPWVの変化との関連について分析しました。
その結果、ユーダイモニア・ウェルビーイングが高いレベルの男性は、ユーダイモニア・ウェルビーイングが低いレベルの男性に比べてPWVの平均値が低く、その傾向は5年経過しても持続することが明らかになりました(図1)。女性では、同様の傾向は認められませんでした。また、本研究において、へドニア・ウェルビーイングのレベルとPWVとの関連は男女ともに認められませんでした。以上のことから、男性においては、へドニア・ウェルビーイングのような「快楽」を感じる状態よりも、ユーダイモニア・ウェルビーイングのような「人生における意味や目的」を感じる状態 が動脈硬化の進展を予防する可能性が示されました。
本研究により、とりわけ高齢男性において、人生の意味・目的を感じることで得られるユーダイモニア・ウェルビーイングのレベルが高いことが、動脈硬化の進展を予防することが示されました。現在の日本の高齢者層の多くは、“夫は外で働き、妻は家庭を守る”という価値観が広く浸透している時代を過ごしてきましたが、今回の結果から、熱心に仕事に打ち込んできて退職を迎えた高齢男性にとって、退職後の人生に意味・目的を見出し、第二の人生目標を設定することは重要と考えられます。人口の高齢化が進む中、日本の高齢男性においても、ユーダイモニア・ウェルビーイングのレベルを上げることは、循環器疾患、寝たきり予防対策を考える上で必要です。今後、日本の高齢者を対象に心理的ウェルビーイングの循環器疾患への影響について検討する予定です。
用語解説
*1 縦断研究: 同一の対象者を長期にわたり継続的に調査する研究
*2 心理的ウェルビーイング: ウェルビーイングは異なる心理的な要素をもつ、へドニア ・ウェルビーイングとユーダイモニア ・ウェルビーイングに大別される。へドニア・ウェルビーイングは「快楽主義」とも表現され、五感を通した心地よさや喜びを感じ苦痛や不快感がない状態を表す。例えば、美味しい料理を食べている時に感じるような一時の感覚的な幸せがある。一方、ユーダイモニア・ウェルビーイングは「人生における意味や目的を感じること、または良好な精神的機能」と表現され、 人間の滞在能力が十分に機能している状態を表す。例えば、意義ある目標に向かって楽しいばかりではない、困難にも立ち向かいながら生きている人生に幸せを感じるというものがある。
*3 CASP-19 : 世界的に用いられている心理的ウェルビーイングを評価する自記式質問紙。 CASP-19 は、65~75 歳の人を対象に開発された生活の質の指標であり、ウェルビーイングの 4 つの領域、すなわち「人生の喜びや楽しみ」、「コントロール」、「自律性」、「自己実現」 を捉えている。 「人生の喜びや楽しみ」といった快楽領域(5個の質問項目)はへドニア・ウェルビーイングの指標、他の 3 つの領域(14個の質問項目)はユーダイモニア・ウェルビーイングの指標として、先行研究と同様、本研究においても用いた。 各質問項目についてその強度を1-4点とし、ウェルビーイングごとでそれぞれの質問項目を加点することによって評価する。
原著論文 本研究は、米国の医学雑誌「Hypertension」オンライン版に2020年7月13日付で公開されました。
英文タイトル: Psychological Wellbeing and Aortic Stiffness: Longitudinal Study
日本語訳:心理的ウェルビーイングと動脈硬化との関連:縦断研究
著者: Ai Ikeda (野田愛)1,2, Andrew Steptoe1, Martin Shipley1, Ian B Wilkinson3, Carmel M McEniery3, Takeshi Tanigawa (谷川武)2, Archana Singh-Manoux1,4, Mika Kivimaki1, Eric J. Brunner1
著者所属:
1 Department of Epidemiology and Public Health, Institute of Epidemiology and Health, Faculty of Population Health Sciences, University College London, London, UK
2 Department of Public Health, Juntendo University Graduate School of Medicine, Tokyo, Japan
3 Division of Experimental Medicine and Immunotherapeutics, University of Cambridge, UK
4 Université de Paris, Inserm U1153, Epidemiology of Ageing & Neurodegenerative diseases, Paris, France
DOI: 10.1161/HYPERTENSIONAHA.119.14284.
本研究は、 国際共同研究加速基金(国際共同研究強化(A)):17KK0175の支援を受け実施されました。
- これまで研究されてこなかった心理的ウェルビーイングと循環器疾患のリスクとの関連を調査。
- 英国で実施されている長期的かつ大規模な縦断研究のデータを使用。
- 高齢男性では「人生における意味や目的」を感じることが動脈硬化を抑制することを明らかにした。
背景
我が国において、脳血管疾患ならびに心血管疾患を含む循環器疾患は、主要死因であるだけでなく、寝たきりにつながる主な要因であり、 医療費に占める割合は第1位となっています。人口の高齢化が今後一層進行し、医療費がさらに増大し続ける我が国において、循環器疾患の発症リスクを低下させ、寝たきりを減少させることは重要な課題です。
このような背景のもと、ストレスが多い現代社会において、うつ等のネガティブな感情が循環器疾患へ与える影響について多くの研究が進められていますが、ポジティブな感情との関連については、ほとんど研究されてきませんでした。とくに、ポジティブな感情のもととなる自らの人生を生きるに値するものとするための「意味(meaning)」や「目的(purpose)」といった要素と循環器疾患のリスクとに関連があるのかについてよくわかっていませんでした。そこで、研究グループは、ポジティブな感情である心理的ウェルビーングと循環器疾患の発症リスクとの関連を明らかにすることを目的とし、本研究を行いました。
内容
本研究では、英国ロンドン中心部で働く公務員を対象とした長期的で大規模な縦断研究(ホワイトホールⅡ研究)のデータを用いて動脈硬化の進展について分析することで、心理的ウェルビーイングと循環器疾患の発症リスクとの因果関係について検討しました。ホワイトホールⅡ研究は、英国ロンドンの公務員を対象に1985年に開始され、4~5年ごとのアンケート調査と様々な臨床検査による追跡調査が進められています。 今回、2007~2009年の間を本研究の基準時として設定し、心理的ウェルビーイングに関しCASP-19 (*3)を用いて調査分析を行いました。CASP-19は心理的ウェルビーイングを「人生の喜びや楽しみ」、「コントロール」、「自律性」、「自己実現」の4つの領域に定義していますが、今回の研究では、 「人生の喜びや楽しみ」の項目は、へドニア・ウェルビーイング(「快楽」を感じる状態)の指標として用い、他の3つの領域の項目はユーダイモニア・ウェルビーイング(「人生における意味・目的」を感じる状態)の指標として用いました。動脈硬化を表す指標である大動脈脈波伝播速度( PWV ;Pulse Wave Velocity) については、基準時(2007~2009年)と5年後(2012~2013年)の測定値を用いました。本研究では、基準時に脳血管疾患または心血管疾患の既往がなく、CASP-19に回答し、基準時か5年後のどちらかでPWVの測定を行った4754名(平均年齢65.3歳、男性:3466名、女性:1288名)を対象とし、心理的ウェルビーイングと5年間のPWVの変化との関連について分析しました。
その結果、ユーダイモニア・ウェルビーイングが高いレベルの男性は、ユーダイモニア・ウェルビーイングが低いレベルの男性に比べてPWVの平均値が低く、その傾向は5年経過しても持続することが明らかになりました(図1)。女性では、同様の傾向は認められませんでした。また、本研究において、へドニア・ウェルビーイングのレベルとPWVとの関連は男女ともに認められませんでした。以上のことから、男性においては、へドニア・ウェルビーイングのような「快楽」を感じる状態よりも、ユーダイモニア・ウェルビーイングのような「人生における意味や目的」を感じる状態 が動脈硬化の進展を予防する可能性が示されました。
今後の展開
本研究により、とりわけ高齢男性において、人生の意味・目的を感じることで得られるユーダイモニア・ウェルビーイングのレベルが高いことが、動脈硬化の進展を予防することが示されました。現在の日本の高齢者層の多くは、“夫は外で働き、妻は家庭を守る”という価値観が広く浸透している時代を過ごしてきましたが、今回の結果から、熱心に仕事に打ち込んできて退職を迎えた高齢男性にとって、退職後の人生に意味・目的を見出し、第二の人生目標を設定することは重要と考えられます。人口の高齢化が進む中、日本の高齢男性においても、ユーダイモニア・ウェルビーイングのレベルを上げることは、循環器疾患、寝たきり予防対策を考える上で必要です。今後、日本の高齢者を対象に心理的ウェルビーイングの循環器疾患への影響について検討する予定です。
用語解説
*1 縦断研究: 同一の対象者を長期にわたり継続的に調査する研究
*2 心理的ウェルビーイング: ウェルビーイングは異なる心理的な要素をもつ、へドニア ・ウェルビーイングとユーダイモニア ・ウェルビーイングに大別される。へドニア・ウェルビーイングは「快楽主義」とも表現され、五感を通した心地よさや喜びを感じ苦痛や不快感がない状態を表す。例えば、美味しい料理を食べている時に感じるような一時の感覚的な幸せがある。一方、ユーダイモニア・ウェルビーイングは「人生における意味や目的を感じること、または良好な精神的機能」と表現され、 人間の滞在能力が十分に機能している状態を表す。例えば、意義ある目標に向かって楽しいばかりではない、困難にも立ち向かいながら生きている人生に幸せを感じるというものがある。
*3 CASP-19 : 世界的に用いられている心理的ウェルビーイングを評価する自記式質問紙。 CASP-19 は、65~75 歳の人を対象に開発された生活の質の指標であり、ウェルビーイングの 4 つの領域、すなわち「人生の喜びや楽しみ」、「コントロール」、「自律性」、「自己実現」 を捉えている。 「人生の喜びや楽しみ」といった快楽領域(5個の質問項目)はへドニア・ウェルビーイングの指標、他の 3 つの領域(14個の質問項目)はユーダイモニア・ウェルビーイングの指標として、先行研究と同様、本研究においても用いた。 各質問項目についてその強度を1-4点とし、ウェルビーイングごとでそれぞれの質問項目を加点することによって評価する。
原著論文 本研究は、米国の医学雑誌「Hypertension」オンライン版に2020年7月13日付で公開されました。
英文タイトル: Psychological Wellbeing and Aortic Stiffness: Longitudinal Study
日本語訳:心理的ウェルビーイングと動脈硬化との関連:縦断研究
著者: Ai Ikeda (野田愛)1,2, Andrew Steptoe1, Martin Shipley1, Ian B Wilkinson3, Carmel M McEniery3, Takeshi Tanigawa (谷川武)2, Archana Singh-Manoux1,4, Mika Kivimaki1, Eric J. Brunner1
著者所属:
1 Department of Epidemiology and Public Health, Institute of Epidemiology and Health, Faculty of Population Health Sciences, University College London, London, UK
2 Department of Public Health, Juntendo University Graduate School of Medicine, Tokyo, Japan
3 Division of Experimental Medicine and Immunotherapeutics, University of Cambridge, UK
4 Université de Paris, Inserm U1153, Epidemiology of Ageing & Neurodegenerative diseases, Paris, France
DOI: 10.1161/HYPERTENSIONAHA.119.14284.
本研究は、 国際共同研究加速基金(国際共同研究強化(A)):17KK0175の支援を受け実施されました。
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