【福井県坂井市】三国の古刹・瀧谷寺所蔵 木造薬師如来坐像は奈良時代前期の作か
仏像研究の専門家、副島・大正大学名誉教授が新説唱える

福井県最古級に市教委も注目、瀧谷寺も今秋から一般公開
福井県坂井市三国町滝谷の古刹・真言宗智山派の瀧谷寺(たきだんじ)に所蔵され、これまでは平安時代後期または中世の作とみられていた木造薬師如来坐像が、奈良時代前半期(8世紀前半)の作の可能性がある、との説を仏像研究の専門家である大正大学名誉教授の副島弘道氏(74)=日本彫刻史=が提唱している。「細身の均斉のとれた体と薄手の衣の隆盛な表現」「卵形の顔にわずかに残る穏やかな目と口角を上げて微笑む口を持つ独特な表情」などが年代推定の大きな理由になったという。これを受けて、瀧谷寺では、同像を虫害を防ぐための虫処理を施し、今秋から同寺の宝物殿で一般公開を始めた。瀧谷寺の仏像や関係史料に注目してきた坂井市龍翔博物館の笠松雅弘館長(70)も「奈良時代の仏像とすれば、すごい発見だ。瀧谷寺には奇跡と思えるほど、古くて貴重な史料がたくさん残されている。まさに坂井市の文化財の宝箱のような寺院。住職さんも文化財に対して理解があり、地元の博物館としても調査研究や保存の方面で全面的に協力していきたい」と語り、瀧谷寺の文化的な価値を高く評価している。
均斉のとれた体と薄手の衣の流麗さ
卵形の顔に残る穏やかな目
口角を上げた微笑み
日本女子大学の史料調査の一環がきっかけ
木造薬師如来坐像は高さ88センチ、髪際高76.5センチで、ケヤキ材の一木造り。明治時代には同寺の塔頭の一つ「教授院」の本尊として祀(まつ)られていたが、同時期、教授院が角屋(現あわら市角屋)に移転したのに伴い、現在、唯一残る塔頭「龍泉院」に移されたものとみられる。瀧谷寺は、中世・近世の越前の真言宗寺院において時の権力者の帰依なども受け、優越的な立場にあった寺院。残された古文書などの量も多く、2023年度からは日本女子大学の藤井雅子教授らのグループが本格的に調査研究に取りかかった。その一環として、昨年には副島名誉教授が同像を詳しく調べた。その結果を今年3月、坂井市龍翔博物館で開かれたシンポジウム「越前国三国湊瀧谷寺と宗教ネットワーク」の場で発表し、奈良時代の作の可能性を指摘した。
平城の都・一流仏師の作か 気品にみちた優れた造形


像の残存状態は必ずしも良くなく、虫食いにより頭部にある粒状に表された螺髪(らほつ)が失われ、顔、胸などの傷みも多い。副島名誉教授によると、頭部から両肘までの体部はケヤキ材による造立当初のものであり、左手首から先、右肘から先、下半身の両脚部などは、近世にヒノキ材を使って補修されている。また、像の表面が漆塗りになっているが、当初は漆箔(しっぱく)仕上げだった可能性があるという。
細身の均斉のとれた体と薄手の衣の流麗な表現▽卵形の顔に、わずかに残る穏やかな目と口角を上げて微笑む口を持つ独特な表情などには、奈良時代(710~794年)の仏像の特徴がうかがえるーという。さらに「気品にみちたすぐれた造形から、中央(都があった奈良)の一流工人(仏師)の手になるものと思われる」とする。
副島名誉教授は、「均斉のとれた整った作風は奈良時代の仏像の特徴」であり、法隆寺五重塔東面塑造文殊菩薩坐像(711年)、興福寺乾漆造十大弟子立像(734年)、東大寺法華堂塑造執金剛神立像および戒壇堂塑造四天王立像」(730~740年ごろ)などとの類似点から、瀧谷寺像は「奈良時代の8世紀前半ごろの作ではないか」と推定している。

副島名誉教授「類のない木彫像 奈良時代の彫刻史に新たな視点」
「稀有な作品 なぜ南北朝期創建の瀧谷寺に?」
こうした奈良時代の仏像が三国の古刹でみつかる背景には、坂井郡には三国真人(みくにのまひと)を名乗る有力な古代豪族がいて、その一族から中央官人として都で仕えた人物もいること、三国真人国継(くにつぐ)が天平神護2年(765)に坂井郡の墾田を東大寺に売進していること、また『続日本紀』に、宝亀9年(778)に高麗国からの使いが三国湊に来着したとの記録があることなどから、副島名誉教授は「やはり三国湊の存在が大きいのでは」という。また「坂井郡が荘園を通して、東大寺との関係も深い土地柄であったことも影響しているのではないか」と推察し、「いずれにせよ、この地域の奈良時代の文化を物語る稀有な作品である」と評価する。
さらに、なぜ瀧谷寺に残ったのかという点では、同寺にはほかにも寺創建時以前の平安や鎌倉時代の作と思われる仏像が多く残されていて、「薬師如来像も周辺にあった古寺から、有力寺院である瀧谷寺に移されて守られてきたのだろう」と推察している。
副島名誉教授は、この坐像の存在について、「今回の調査で、初めて知った」と話しており、「このような類の少ない奈良時代前半期の本格的な木彫像の存在は、奈良時代の木彫像の歴史を考える上でも、多くの視点を提供している

副島 弘道(そえじま・ひろみち)氏の経歴
1952年生まれ。文化庁、東京国立博物館、跡見学園女子大学、大正大学を経て、現在大正大学名誉教授。山口県、東京都、神奈川県、栃木県などの各県文化財保護審議委員、および文化審議会専門委員(国)などを勤めた。専門は、日本彫刻史および文化財学。
貴重な史料残る瀧谷寺 来年6月、観音堂33年に1度 秘仏ご開帳控える
瀧谷寺の貝谷隆慧住職(52)も、今回の奈良時代の作ではないかとの説に喜んでおり、「代々にわたって修復が繰り返され、多くの人に拝まれてきた大切な仏像です。今回、副島先生からも、しかるべき保存修理の指導もいただいたので、さっそく虫食い対策を施しました」として、宝物殿のガラスケースでの一般公開を始めた。当面の間、展示される予定で、来年6月には同寺観音堂の本尊「如意輪観世音菩薩」が33年に一度の御開帳(11日~27日)を控えていることもあり、「ご開帳の本尊は霊験あらたかな秘仏であり、お参りの際には薬師如来坐像も合わせて御参拝いただき、奈良時代の作とされる仏像の美に触れてほしい」と話している。

瀧 谷 寺(たきだんじ)
真言宗智山派の寺院。山号は「摩尼宝山」。南北朝時代の末期、紀州・根来寺にて学僧であった睿憲(えいけん)上人が真言研究のため中国に渡ろうとして遭難し越前の崎浦(三国町)に漂着、その後永徳元年(1381)に現在の地に瀧谷寺を開山した。中世には、堀江氏や朝倉氏、その後近世では福井藩の庇護を受け、伽藍は中世から徐々に整えられ、本堂、観音堂、方丈および庫裏、開山堂、山門、鎮守堂、覆屋、拝殿、鳥居などを持つが、いずれの建造物も国の重要文化財に指定されている。開山堂は元亀3(1572)年、地元豪族の堀江氏が建立した笏谷石製切妻造りのお堂で、内壁に13体の石仏が彫られこの時期の建物としては珍しい。また国宝の「磬」をはじめ貴重な絵画、工芸、古文書、聖教など史料類を多数所蔵し、境内にある宝物殿にて、時期によって展示品を入れ替えながら一般公開している。

国宝 金銅毛彫宝相華文磬(こんどうけぼりほうそうげもんけい)
坂井市での唯一の国宝(1953年指定)。
「磬(けい)」とは叩いて音を出す仏具。平安時代後期の作で、肩幅23.9センチ、裾張(弦)27センチ、高さ9.5センチ。中央に大形の八葉複弁撞座(つきざ)を据え、その左右には美しく打たれた魚々子地(ななこぢ)に中心から左右に伸びる宝相華唐草文を施している。平安時代後期の優雅な趣を漂わせ、王朝文化の洗練された美しさを伝えている。日本の磬を代表する作品。

日本最古の天文図 天之図(星図)
国重要文化財(1989年指定)。室町時代に越前の大名・朝倉孝景から寄進された現存する日本最古の天文星図。天文16年(1547)以前の製作と推定される。縦145.1センチ✕横97.4センチ。上段には星座・星を詠んだ漢詩「歩天歌」が書かれてあり、下段には「星宿図」が描かれている。「星宿図」には331の星座と1554個の星数からなり、朱線で二十八宿ごとに星座がまとめられているため、星座相互の位置関係は正確ではない、とされる。ただ、星座名には安倍家伝来の『格子月進図(こうしげっしんず)』と一致するものも多い。「格子月進図」が焼失後の奈良、平安時代の星図を伝える極めて貴重な資料とされる。

瀧谷寺庭園
1929年に国の名勝に指定されている。庭園は本堂と観音堂の背後東北部に位置する座観式林泉庭園で、広さ約1600平方メートル。平坦部は少なく、建物の縁に沿って広さ100平方メートルほどの細長い園池がうがたれ、汀(みぎわ)と建物との間には節理のきれいな「安島石」の飛石が打たれている。池が狭いため、池中に中島は設けられていない。本堂から見て、池の対岸は自然の岩盤を掘削したままの急な護岸や窪みとなっている。建物側には全体に景石による護岸がみられ、変化に富んでいる。築山や斜面には、三尊石組や灯籠が据えられている。築山上にはスギやシイなどの巨樹がうっそうと繁る。園地周辺のツツジ類の刈込みと鮮苔類が、庭石組や飛石によく調和し、美しい庭園景観を醸し出している。
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