赤尾家住宅及び旧太田家住宅の国登録有形文化財(建造物)への登録について
姫路市網干区新在家にある赤尾家住宅主屋など4件と、同区興浜にある旧太田家住宅主屋など4件が、国登録有形文化財(建造物)に登録される見通しとなりました。


概要
国の文化審議会(会長 日比野勝彦)は、令和8年7月17日(金曜日)開催の同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、新たに163件の建造物を登録するよう、文部科学大臣に答申を行いました。
このうち、姫路市内に所在するものは、姫路市網干区新在家にある赤尾家住宅主屋など4件と、同区興浜にある旧太田家住宅主屋など4件です。
赤尾家住宅及び旧太田家住宅の建造物は、後日の官報告示を経て登録されます。市内の国登録有形文化財(建造物)の登録件数は、8件増えて99件となる予定です。
網干地区について
両住宅のある網干地区は、古くから港町として発展しました。江戸期に姫路藩領が成立した後に龍野藩領となり、さらに村ごとに丸亀・龍野・幕府領にわかれるなど、領主の変遷は複雑な様相を示しました。
江戸期には、赤尾家住宅のある新在家村、旧太田家住宅のある興浜(おきはま、旧奥浜)村は、余子浜(よこはま、旧横浜)村と共に網干3ヶ村と称されました。新在家は、万治元年(1658)に龍野藩領時代の領主であった京極家が丸亀に移封された後も龍野藩領のままでしたが、興浜と余子浜は丸亀藩の飛び地領地となり、興浜には丸亀藩領の陣屋が築かれていました。
国登録有形文化財(建造物)候補「赤尾家住宅」の概要
名称
赤尾家住宅 主屋、店舗兼住居、土蔵、材木倉庫 計4件 ※いずれも内部非公開
所在地(住居表示)
姫路市網干区新在家895
概要
赤尾家住宅は、市域南西部の網干区新在家にあり、当地を東流する網干川の南岸に所在しています。
赤尾家は、もと商家の家系で、江戸後期に赤穂より網干に移り住んだ初代治良左衛門が赤穂屋(アコヤ)の屋号で材木商を営みはじめ、4代治三郎より赤尾を名乗ったと伝わっています。材木商は7代龍治の頃に閉業しましたが、当時の様相を残す建造物は9代目となる現当主に引き継がれています。
なお、7代龍治は、網干区浜田に所在する臨済宗妙心寺派寺院の龍門寺(本堂等が市指定文化財)の開祖、盤珪禅師の研究者として活躍しました。研究書のうち盤珪禅師全集は仏教学会では初出版と言われるもので、郷土史研究家としての文化的功績は高く評価されています。
また、7代龍治の弟俊郎は、赤尾兜子(とうし)の俳号で活躍した俳人で、当家には同級の作家司馬遼太郎や、一年上級の作家陳舜臣が訪れ、親交を深めていました。なお、昭和52年度(1977年度)に7代龍治が、昭和55年度(1980年度)に俊郎(兜子)が、兵庫県文化賞を受賞しています。
店舗兼住居は、材木商による材木と意匠に凝った上質な近代和風建築で、「造形の規範となっているもの」として評価されました。また、主屋、土蔵、材木倉庫は、港町網干の沿道や網干川沿いの歴史的景観を形成しており、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として評価されました。




国登録有形文化財(建造物)候補「旧太田家住宅」の概要
名称
旧太田家住宅 主屋、土蔵、道具蔵、門及び塀 計4棟 ※いずれも内部非公開
所在地(住居表示)
姫路市網干区興浜67
概要
旧太田家住宅は市域南西部の網干区興浜にあり、当地を東西に走る旧浜街道(室街道下道、室津道南路、網干道)沿いに所在しています。
太田家は、醤油醸造販売や貝釦製造業を営んだ商家で、近世以前の系図は詳らかではありませんが、興浜の総代も務めた家系と伝わっています。当地に居を構えた当家初代の市次郎と2代勝治が醤油業を営んでいました。2代勝治は貝釦の製造も行っており、明治44年(1911)の明治天皇姫路行幸の際に天覧に供された貝釦一式が、今も残されています。3代陸郎は、市北部の夢前町(旧置塩村)出身の名倉次(自由民権運動家で衆議院議員も務めた)の六男として生まれ、養嗣子として太田家3代目を継いだ人物で、民俗学者の柳田國男に師事するなど、自身も民俗学者として活躍しました。
主屋は、室毎に工夫が見られる上質な近代和風で、「造形の規範となっているもの」として評価されました。また、土蔵、道具蔵、門及び塀は、街道沿いの歴史的景観を形成すると共に、当地区明治期の上層商家の屋敷構えを伝えており、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として評価されました。




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