謎多き名探偵の極東冒険譚、ついに世界へ進出!『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』
2017年6月に講談社文庫から書下ろし作品として発表された松岡圭祐『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』が、この度アメリカで翻訳出版されることが決定した。
2017年は松岡圭祐が作家デビュー20周年を迎えた年である。同年4月に出版された歴史大作『黄砂の籠城』の二ヵ月後に刊行された本作は、「インテリジェンス戦士の悲哀が伝わる」(佐藤優氏)「史実<大津事件>に挑むホームズ。面白さ破格のミステリー」(島田荘司氏)という賛辞を持って迎えられた歴史謎解きミステリーだ。由緒正しい探偵小説研究会「SRの会」の2017年度ミステリベスト10で、国内部門の第4位にランクインしている。
NYヴァーティカル社の編集者、ヤニ・メンザス氏に「ホームズとその東洋行に『ベーカー街の住所』のような現実味を与える氏は、世界に誇るべき才能」とまで言わしめる本作は、まさに海外に大きく羽ばたくべき傑作なのである。
主人公は題名からお察しの通り、イギリスの作家コナン・ドイルが生み出した世界一の名探偵、シャーロック・ホームズだ。物語はホームズが宿敵のモリアーティ教授とライヘンバッハの滝で対峙する場面から始まる。取っ組み合いの末、日本の武術を使ったホームズによってモリアーリティは滝つぼへと転落した。宿敵に勝利したホームズは、自身の生存を隠すことを思い付く。自分が死んだとモリアーティの残党たちに思わせれば、油断したところを一網打尽に出来るだろう。それにモリアーティへの正当防衛を立証できなければ、逆に自分が殺人罪に問われてしまう。やはり当面は姿を隠すべきだ。
ホームズは兄マイクロフトの助けを借りて、遠い海の向こうにある国の重要人物のもとに身を置くことになる。その重要人物こそ日本最初の内閣総理大臣、伊藤博文なのだ。伊藤博文は長州藩士時代の訪英中に、ホームズ兄弟と出会っていた。日本の武術をシャーロックに見せたのも、実は若き日の伊藤博文だったのだ。なんと、そこで世界一の名探偵と初代内閣総理大臣を繋げるのか!
イラスト:寺西 晃
虚実が入り混じった大胆かつ奇抜な発想に、これだけでも読者は十分驚かされるはず。しかしこれは物語のほんの序章に過ぎないのだ。作者はこの発想に飽き足らず、さらに大きな“実”をホームズという“虚”にぶつけてくる。その“実”とは大津事件。ロシア皇太子を警備中の巡査が切りつけたという歴史的事件の裏にある大陰謀に、ホームズは神の如き推理力で立ち向かう。
ここからが物語の本領発揮だ。推理に次ぐ推理で謎解きファンを満足させ、切れのあるトリックで唸らせる。そして謎解きだけでなく、ありとあらゆる活劇の要素を取り込み、最後には途方もないスケールの冒険が展開するのだ。
さらに本作をこれまでにないシャーロック・ホームズ物語として完成させる上で、作者は二つの“知られざる素顔”をホームズに与えている。
一つの目の顔は、一つは正義と個人の関係に悩むホームズだ。ホームズが倒したモリアーティはロンドンの暗黒街を牛耳る親玉であり、ドイルの原作においても悪の権化のようにホームズの口から語られている。しかし例え悪魔のような人間であっても、殺す以外に相手を制する方法は無かったのだろうか。そもそも一介の探偵に、私的な制裁を行う資格はあったのだろうか。日本に渡ったホームズは、モリアーティの死について、そして法と正義について幾度となく自問自答することになる。
法の埒外にある強大な悪が眼前に現れたとき、個人はどうやって正義を履行すべきなのか。名探偵の代名詞であり、古典中の古典であるシャーロック・ホームズ物語に、実はこういった正義についての問いが潜んだいたことに本書は気付かせてくれるのである。
そして、もう一つの顔は兄弟の関係に悩むホームズの姿だ。政府の役人である兄マイクロフトは、弟シャーロックを凌ぐ頭脳を持つ人物であると描写されている。原作エピソードでは兄との関係について深く突っ込んだ見解を離さないシャーロックだったが、本書では兄に対して屈折した思いを抱えて生きる人間として彼を描いているのだ。天才的な名探偵が隠し持つ劣等感、というホームズ像が確立されている点もまた、新たなシャーロック・ホームズ物語として見逃せないところである。
正義と兄弟。この二つのキーワードから浮かび上がるのは、名探偵という衣を脱いだ時に出てくる、生身のシャーロック・ホームズの姿だ。正義に悩み、兄弟関係に悩むという、極めて人間味に溢れるホームズの内面がしっかりと表現されていく。本作は日本という国でホームズが仮面の下にある、真実の顔をさらけ出す物語と言って良いだろう。
そう、ここには未だ誰も見たことのないシャーロック・ホームズの姿がある。翻訳出版は2019年度になるとのことだが、その新しさに今度は日本だけでなく世界中の読者が驚愕する瞬間がやってくるのだ! 若林踏(書評家)
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