記憶した演奏動作の想起が不安定になる仕組みとそのトレーニング法を発見
~動きの記憶を思い出す際の行動と脳の安定性を評価し、暗譜に関わる脳の働きを解明~
ポイント
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楽器演奏に代表される長大な動作を記憶した後、「思い出そうとしても思い出せない」問題は古くから大きな問題。
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長大な動作を記憶する際、動作を分割して記憶することが多いが、部分ごとに切り取って覚えた動作を繋げて思い出す(想起)脳の働きは未解明。
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記憶したピアノ演奏を想起して弾く際に、打鍵した音と異なる音を人為的に入れ替えて鳴らすピアノを構築し、外乱を与えることで、記憶想起の安定性を評価。
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記憶想起の安定性は、部分ごとに覚えた動作を繋げる部分(境界)で特に不安定になることを、実際のピアノ演奏中の行動実験と脳波実験を通して発見。
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動きの系列同士の境界を繋げる練習により、記憶想起の不安定性が低減し,記憶想起の負荷と関連する脳波信号が低減することを新たに発見。
一般社団法人NeuroPianoおよび株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所のPei-Cheng Shih博士、平野雅人博士、古屋晋一博士らのグループは、ピアノ演奏における暗譜に関わる脳の仕組みを発見し、その安定性を高めるトレーニングを初めて科学的に明らかにした研究成果を発表しました。
何度も練習して覚えた長大な動作を、いざ思い出そうと思った際に思い出せない問題は、楽器演奏やスピーチなど、様々な場面で人々を悩ませてきました。特に長大な動作を分割して練習すると、個々の動作を繋ぐ部分で記憶が不安定になることを示唆する結果は報告されていましたが、それを克服し安定して思い出す術は確立されていませんでした。研究グループは、ピアノの演奏中に、打鍵した音とは異なる音が時折鳴るシステムを開発し、ピアニストらが事前に覚えてきた複数の短いフレーズ(指の運動系列)を繋げた長大なフレーズを演奏する際に、時折鳴る意図せぬ音に対するパフォーマンスの反応から、記憶想起の安定さを評価できる手法を確立しました。その結果、ピアニストは短いフレーズ同士の境界で意図しない音が鳴った時に,特に演奏が乱されることが明らかになりました。また、フレーズ同士の境界の直前に、記憶想起やその負荷と関連している脳波成分(前頭前野正中部のシータ波)が一時的に増大することから、境界直前で記憶を想起していることが示唆されました。さらに、個々のフレーズを繋ぐ橋渡しをする練習を追加で実施すると、音の外乱による動作の不安定性が改善することが明らかになりました。また、この橋渡し練習後は、記憶想起の負荷に関わる脳波が低減することから、効率的に記憶想起できるようになったことが明らかになりました。
これらの発見は「何度も練習して覚えた動作を思い出せない」という、楽器演奏者を悩ます暗譜の問題に対して、その脳の働きの理解を深め、問題改善の手段を明らかにする意義があります。その結果、やみくもに反復練習によって暗譜するのではなく、記憶の安定性や頑健さを高めるための体系立てた練習法を整備できる可能性が開け、効率的な練習や誤学習の予防につながります。また、練習法が記憶を形作ることを明らかにし、技能伝承、教育法の開発、ヒューマンインターフェース設計など多分野への応用が期待されます。
本研究成果は、2026年2月20日(米国東部時間)に国際科学誌「iScience」で公開されます。
https://www.cell.com/iscience/fulltext/S2589-0042(25)02823-8
本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
ムーンショット型研究開発制度(MOONSHOT)
研究領域:「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」
(研究総括:萩田 紀博 大阪芸術大学 芸術学部 アートサイエンス学科 学科長・教授)
研究課題名:「身体的能力と知覚能力の拡張による身体の制約からの解放」
研究代表者:金井 良太(株式会社 アラヤ)
研究期間:令和2年10月~令和8年3月
<研究の背景と経緯>
プロのピアニストは、何万もの音符からなる長大な楽曲を暗譜し、楽譜を見ずに高速かつ正確に長時間演奏します。このような驚異的なパフォーマンスを実現するために、脳は膨大な情報を「運動系列」(チャンク)と呼ばれる小さな意味の塊に分割して処理していると考えられています。例えば、電話番号をハイフンで区切って覚えるように、音楽家は楽譜をフレーズごとに区切って記憶することが主です。
しかし、それぞれの動きの塊である運動系列がどのように連結され、滑らかで連続的な演奏として出力されるのか、その詳細な脳のメカニズムは十分に解明されていませんでした。特に、一つの運動系列が終わり、次の運動系列へと移行する「境界(つなぎ目)」は(図1)、記憶の検索や運動の切り替えが必要となり、エラーが起こりやすく、演奏家にとって不安定な箇所となりがちなことが知られています。多くの演奏家が経験する「暗譜への不安」や、本番での「ふとした瞬間に演奏が崩れる問題」は、このチャンク境界における脳の情報処理と深く関わっている可能性があります。しかし、実際のピアノ演奏のような複雑な課題で境界における記憶想起の不安定性を評価することや、不安定性を克服する練習法は確立されていませんでした。
本研究チームは、この「運動系列の境界」に着目し、実験室での単純化された課題ではなく、ピアニストが実際に楽器を演奏している課題を対象にし、系列の境界で正確に次の動きを思い出そうとする際に記憶想起が不安定になるか、それをトレーニングによって克服できるかを明らかにすることを目指しました。
<研究の内容>
一般社団法人NeuroPianoとソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)の研究チームは、ピアニストを対象に、特殊なピアノを用いた行動実験と脳波を用いた神経生理実験を行いました。実験では、参加者が特定のメロディを演奏している最中に、電子ピアノから出る音を任意のタイミングで別の音に入れ替えられるシステムを開発しました(可変聴覚フィードバック)。これを用いて、演奏者の聴覚と運動の協調関係を一時的に乱し、その際の脳と身体の反応を調べました。重要なポイントは、この人為的な音の操作を「運動系列の内部(フレーズの途中)」で起こした場合と、「運動系列の境界(フレーズの切れ目)」で起こした場合で、反応に違いがあるかを比較した点です。
実験の結果、以下のことが明らかになりました。
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境界での脆弱性(行動実験): 音の変化が「運動系列の境界(フレーズの切れ目)」で生じた場合、「運動系列の内部(フレーズの途中)」で生じた場合に比べて、その後の演奏のミスが増え、打鍵力(鍵盤を叩く強さ)が過剰に強くなる傾向が見られました(図2)。これは、境界部分では覚えた動作の想起が不安定になりやすく、外部からの撹乱に対してより敏感に反応してしまうことを示唆しています。
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脳の記憶想起(脳波実験): 演奏中の脳波計測の結果、運動系列の境界の直前に、前頭部の中心付近で「シータ波」と呼ばれる脳波活動が増大することが分かりました(図3)。このシータ波は、記憶の中から情報を検索して想起する際に活動が強まることが知られており、覚えた動作を思い出す際の脳の認知的負荷の指標(マーカー)となります。 つまり、ピアニストの脳は、フレーズのつなぎ目に差し掛かると、次のフレーズの動きを思い出すために、一時的に負荷が高まることが示されました。
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練習による脳活動の変化(介入実験): さらに、運動系列の境界部分を想起する練習(系列結合練習)を重点的に反復した結果、系列の境界におけるシータ波の増大が低減されました。これは、適切な練習を経て、境界における記憶想起と関連する脳の情報処理が効率化され、次の動作の想起が安定して遂行できるようになる可能性を示唆しています。
<今後の展開>
本研究は、どのような練習をするか、いわば“練習の質”により、記憶想起の安定性が左右されることが明らかになりました。特に、「運動系列のつなぎ目」が脳にとって負荷の高い瞬間であり、そこが演奏中に動きを思い出す際の不安定さにつながる可能性があるという知見は、音楽教育や演奏支援において重要な意味を持ちます。
これまで、音楽の現場では経験則として「部分練習」が実施されてきました。本研究成果は、そうした練習方法の効果を示し、その効果をさらに改善する手法をエビデンス(科学的証拠)と共に提案するものです。これらの研究で開発した手法を利活用することで、今後は個々の演奏家の課題に合わせた、より効率的で効果的な練習プログラムの開発につながることが期待されます。
また、本番での「あがり」や演奏不安は、脳の認知的負荷が異常に高まることと関連していると考えられます。系列の境界における脳の処理を安定させることは、これらのリスクを軽減し、安定したパフォーマンス発揮に寄与する可能性があります。そのため、本研究成果は今後あがりの問題の解決プログラム開発の基盤となります。
<参考図>

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図1 実験課題
短い指運動系列を事前に練習し、記憶した後に、それらを繋いだ長大な連続動作を想起する。その際に、運動系列内か,運動系列同士の境界かに,時折弾いた音とは異なる音を人為的に鳴らすシステムを構築する(Altered Auditory Feedback).
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図2 行動実験の結果
系列同士の境界で音の外乱を与えられた際、演奏のミスが増大し、打鍵の強さが増大した。一方、系列内で外乱を与えられた際には、動作の乱れは観察されなかった。
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図3 脳波実験の結果
系列同士の境界の直前で、特定の脳波成分(前頭前野正中部のシータ波)が一時的に増大した。個々の短い運動系列を練習して覚えた後に、系列同士の境界周辺を想起する練習を行ったピアニストらは(系列結合練習群)、運動系列ごとを想起する練習を行ったピアニストらに比べて(系列個別練習群)、記憶想起の負荷を反映した脳波信号の低減が練習後に見られた。
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図4 概念図
境界直前に見られる前頭前野正中部のシータ波が大きいと、記憶想起の負荷が大きくなり、外乱によって次の運動系列を思い出せなくなる不安定な状態となるが、この脳波信号を減らすことで、複数の運動系列を安定して思い出す効率的な記憶想起ができる。
短い指運動系列を事前に練習し、記憶した後に、それらを繋いだ長大な連続動作を想起する。その際に、運動系列中か,運動系列同士の間かに,時折弾いた音とは異なる音を人為的に入れ替えて鳴らすシステムを構築する(Altered Auditory Feedback).
<論文タイトル>
“Bridging chunks during complex movement sequence execution”
(複雑な連続指運動における短い運動系列同士の結合)
DOI:10.1016/j.isci.2025.114562
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>
古屋 晋一(フルヤ シンイチ)
一般社団法人NeuroPiano 代表理事
〒600-8086京都府京都市下京区松原通東洞院東入本燈籠町13-1
E-mail:furuya@neuropiano.org
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