ここにも、そこにも、いのくまさん。知られざる交流と協働の軌跡。「猪熊弦一郎博覧会」4月12日から開幕。
猪熊弦一郎(1902-1993)の画家としての作品世界にとどまらず、著名なアーティストとの交流や建築家との協働、デザインの仕事、そこから生み出された文化的所産に焦点を当て、ご紹介いたします。

猪熊弦一郎は20世紀に活躍した画家です。生涯現役で活動し、その画業は70年の長きに渡ります。一貫して絵画における「美」 を追求し、一方で常に新しい表現に挑戦することで画風が変化し続けました。戦前はパリ、戦後はニューヨーク、ハワイ と海外に拠点を置き国際的に活動しました。 本展では、戦後の猪熊の画業について、絵画以外の活動に注目します。1949年に猪熊が中心となって設立した「新制作派協会建築部」会員との協働、猪熊自身が手がけたデザインやパブリックアートの仕事、ニューヨーク滞在時に日米文化交流で果たした役割や世界的なアーティストとの交流、故郷の香川県に今の「アート県かがわ」につながる文化的な礎を築いたことなど、国内外に遺した足跡をたどります。

本展のポイント
1. 「新制作派協会建築部」の設立と建築家との協働、彫刻家イサム・ノグチとの出会いを紹介
2. 三越包装紙「華ひらく」やJR上野駅壁画《自由》など、生活空間に美を提供した活動を紹介
3. 20年に及ぶニューヨーク滞在中に、日米文化交流において果たした役割や、世界的なアーティストとの交流を紹介
4. 現在の「アート県かがわ」につながる、故郷の香川県における文化的所産(高松美術館、香川県庁舎(現 東館)など)を紹介
5. 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA、1991年開館、谷口吉生設計)を紹介
展示構成

プロローグ 新制作派協会設立
1935年、文部大臣松田源治による突然の帝展改組が起こり、日本の洋画壇に激震が走りました。国による美術界の統制に反発した猪熊弦一郎は、より純粋に芸術を追究したいと官展と決別し、志を同じくする小磯良平や中西利雄をはじめとする仲間たちと、翌1936年に新制作派協会を立ち上げます。以降は生涯を通して同会に出品を続けました。

1章 生活造型/建築
戦時中、猪熊や新制作派協会のメンバーが神奈川県津久井郡(現相模原市)に疎開していました。彼らは地域の人々と親しくつきあい、慕われました。芸術家村を作る構想まで飛び出し、猪熊と交流のあった建築家の山口文象が村の設計図を完成させたと 言われています。同じ頃、猪熊の故郷、香川県に新しい美術館の計画が持ち上がります。猪熊の推薦によって山口文象が設計を担い、1949年に「高松美術館」が開館しました。 同年、猪熊と山口は、気鋭の建築家たち(前川國男、丹下健三、谷口吉郎、吉村順三、池辺陽、岡田哲郎)をメンバーに迎え新制作派協会建築部を創設します。新制作派協会は新たに「生活造型」を理念に掲げ、画家や彫刻家と建築家の協働を盛んに行いました。猪熊自身も、谷口吉郎の慶應義塾大学学生ホール(1949年)や丹下健三の香川県庁舎(1958年)をはじめ、建築空間に合わせた壁画をいくつも手がけています。


2章 生活造型/デザイン、パブリックアート
終戦後、猪熊は、ポスターや雑誌の表紙絵、挿絵、装丁などデザインの仕事を数多く手掛けました。そこには「生活造型」や「絵画は独占するものでなくより多くの人々を喜ばせ、みちびくもの、多くの人々のためになるべきもの」という考え方のもと、生活空間に「美」を提供したいという画家としての思いがあったと考えられます。 三越百貨店の顔ともいえる包装紙「華ひらく」は、1950年にその年のクリスマス用にと依頼を受けて猪熊が制作したもので、赤い曲線のモチーフは、どんな形や大きさの箱でも美しく包めるようにと考え抜かれた配置となっています。好評を博したため定番となって、現在まで70年以上使われてきました。また、1951年に猪熊が制作したJR上野駅中央改札にある大きな壁画《自由》も、数度の修復を受けながら現在も同じ場所で親しまれ続けています。


3章 ニューヨークへ
1955年に拠点をニューヨークに移したことを機に、猪熊の画風は具象から抽象へ一変します。ウィラード・ ギャラリーに所属作家として迎えられ、同画廊で10回の個展を開き、意欲的に新作を発表し続けました。およそ20年のニューヨーク滞在中は、日米文化交流においても、公私に渡り重要な役割を担いました。世界に名だたる多ジャンルの芸術家達と交流し、猪熊邸がたびたび交流の場となっています。また、海外渡航がまだ身近ではなかったこの時代に、日本から同市を訪れる政治家や企業家、一般の旅行者まで、多くが人伝てに猪熊夫妻を頼ってやってきました。面倒見のよい二人は初対面の相手も手厚くもてなし、「民間大使」と呼ばれました。

日米文化交流への公的貢献例
1956年 日本航空ニューヨーク支店の室内装飾を担当。(内装:吉村順三)
1957年 日米協会運営委員、ニューヨーク日本総領事館顧問(文化交流)、日米貿易振興会顧問 (文化交流係)を委嘱される。
1958年 高島屋ニューヨーク支店の壁画を担当。(設計:吉村順三)
1959年 ニューヨークのジャパン・ハウス・ギャラリー「魯山人展」のディスプレイを担当、アメリカ旅行中の棟方志功がポスターを描く。棟方自身もウィラード・ギャラリーで個展開催、猪熊夫人が展示を手伝っている。
京都市とボストン市の姉妹都市結成を記念し、裏千家がボストン博物館に贈った茶室のデザインと庭園のディスプレイをする。
1960年 日米親交100年祭のカタログをデザイン。
4章 「アート県かがわ」の礎
新制作派協会建築部にはじまる建築家との協働は、故郷の香川県において、大きく華ひらきます。丹下健三設計の「香川県庁舎(現 東館)」(1958年落成、2022年国の重要文化財指定)は、当時の香川県知事、金子正則に猪熊が良い建築の重要性を説いて、新進気鋭の丹下健三を紹介したことで実現しました。鉄筋コンクリートによる日本伝統建築の表現、県民に開かれたピロティやロビー、意匠的に優れた家具類等が評価され、香川県庁舎は丹下の初期代表作の一つとなりました。猪熊は1階ロビー陶画《和敬清寂》を担当、家具の一部は、新制作派協会建築部会員となった剣持勇がデザインを担当しています。 丹下の国際的な評価が高まり、香川県庁舎目当ての海外からの来訪が増え、猪熊も金子にロックフェラー3世をはじめとする米国の要人を紹介しています。また、猪熊の働きかけによって、ニューヨークの高級雑貨店で香川の工芸品が販売されるようにもなりました。一方の金子も、香川にアトリ エを構える彫刻家流政之と石工グループ(石匠塾)を世界博覧会日本館のためにニューヨークに派遣する際、猪熊に世話を頼むなど、香川県庁舎に端を発する芸術ネットワークは広がりを見せました。猪熊の影響を受け芸術の重要性を深く理解する金子は、その後も県下の建築や産業デザインの向上に注力し「建築知事」「デザイン知事」と呼ばれました。国内外の芸術家とも交流し、米国タイム誌でも紹介されています。他にも、猪熊は香川に様々な縁をつなぎました。前述の山口文象設計「高松美術館」、心友と呼ぶ彫刻家イサム・ノグチを香川に結びつけたのも猪熊です。こうした猪熊と金子の業績は、瀬戸内国際芸術祭の開催や多くの著名な建築物を擁する現在の「アート県かがわ」に繋がっていくのです。



5章 MIMOCA
1987年、丸亀市は市制90周年記念事業として、市にゆかりのある猪熊に記念美術館の設立を申し出ました。猪熊は、良い美術館を作るのであれば協力すると答え、自分を記念するだけでなく、現代美術を積極的に紹介する美術館にして欲しいと答えます。加えて、便利な駅前立地とすること、 美しい建築空間にすること、子どもの教育に力を入れること、日常の疲れを癒す「心の病院」のような存在となることを希望しました。美しい建築空間のため、猪熊は建築家、谷口吉生(1937-2024)を丸亀市に推薦し、画家と建築家が対話を重ねて、互いの理念が具現化されました。自然光をふんだんに取り込んだ軽やかで開放的な空間は、猪熊が望んだとおりの「心の病院」となったのです。1991年に開館した「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)」は、画家として「美」を追求し、「美の分かる人をもっと増やしていきたい。美の分かる人こそ平和を求める」という思いのもと、人々に「美」を提供し続けた猪熊の画業の集大成であり、最高傑作と言えるでしょう。
エピローグ MoMA
MIMOCAの建築が評価され、のちに谷口吉生はニュー ヨーク近代美術館(MoMA)の大規模リノベーションの設計者に選ばれました(2004年竣工)。実は、猪熊がニューヨークに滞在中、ハーバード大学に留学していた谷口は、猪熊邸を訪れるたびに、当時のMoMAへ連れて行かれたそうです。MIMOCA設計中は、互いにMoMAのような美術館にしたいと話し合っていたとか。巡り巡って、香川とニューヨークが建築でつながりました。MIMOCAには、建築目当ての来館者も国内外から多数訪れています。
関連プログラム
会期中、皆さまにより企画展を楽しんでいただくためのプログラムをご用意しました。
オープニング・イベント「MIMOCA建築ツアー」
「MIMOCA建築見どころマップ」の制作者、五十嵐太郎(文)と宮沢洋(画)と一緒にMIMOCAの建築を巡ります。
講師:五十嵐太郎(東北大学院教授)、宮沢洋(画文家、編集者、BUNGANET代表兼編集長)
日時:2025年4月12日(土) 9:45-(受付開始:9:30-)
集合場所:1階ゲートプラザ
定員:30名(申込不要、先着順)
参加料:無料(別途本展観覧券が必要)
オープニング・トーク
猪熊弦一郎と近代建築との関わりについて、本展の建築史に関する内容を監修した五十嵐太郎と、山口文象設計「高松近代美術館」をはじめ美術空間研究を進めている吉野弘がお話しします。
講師:五十嵐太郎(東北大学院教授)、吉野弘(建築家)
日時:2025年4月12日(土) 14:00-(開場13:30)
会場:2階ミュージアムホール
定員:170名(申込不要、先着順)
聴講料:無料
スペシャル・トーク
本展をはじめ当館で開催した多くの展覧会のアートディレクションやミュージアムショップのグッズデザインを手がけるなど、当美術館と関わりが深い菊地敦己と、副館長の中田耕市がMIMOCAのこれまでとこれからを語ります。
講師:菊地敦己(アートディレクター)、中田耕市(当館副館長兼チーフキュレーター)
日時:2025年7月5日(土) 18:00-(開場17:30)
会場:2階ミュージアムホール
定員:170名(申込不要、先着順)
聴講料:無料
キュレーター・トーク
本展担当キュレーター(古野華奈子、松村円)が展示室で来館者に見どころをお話しします。
日時:2025年5月4日( 日 )、6月1日( 日 )、7月6日(日) 各日14:00-
参加料:無料(別途本展観覧券が必要)、申込不要
出品作家プロフィール

猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)
1902年 香川県高松市生まれ。少年時代を香川県で過ごす。
1921年 旧制丸亀中学校(現 香川県立丸亀高等学校)を卒業、上京し本郷洋画研究所で学ぶ。
1922年 東京美術学校(現 東京藝術大学)西洋画科に進学、藤島武二教室で学ぶ。
1926年 帝国美術院第7回美術展覧会に初入選する。以後、1934年まで毎年出品し入特選を重ねる。
1927年 東京美術学校を中退。
1935年 新帝展に反対し不出品の盟を結んだ有志と第二部会を組織、第1回展に出品する。
1936年 同世代の仲間と新制作派協会(現 新制作協会)を結成、以後発表の舞台とする。
1938年 渡仏、パリにアトリエを構える(~1940)。滞仏中アンリ・マティスに学ぶ 。
1950年 三越の包装紙「華ひらく」をデザインする。
1951年 国鉄上野駅(現 JR東日本上野駅)の大壁画《自由》を制作。
1955年 渡米、ニューヨークにアトリエを構える。
1975年 ニューヨークのアトリエを閉じ、東京に戻る。冬はハワイで制作するようになる。
1989年 丸亀市へ作品1,000点を寄贈。
1991年 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が開館。
1993年 逝去、90歳。
開催概要
展覧会名:猪熊弦一郎博覧会
会期:2025年4月12日(土)-7月6日(日)
開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで)
休館日:月曜日(5月5日は開館)、5月7日(水)
主催:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、公益財団法人ミモカ美術振興財団、独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁
建築史監修:五十嵐太郎(東北大学院教授)
アートディレクション:菊地敦己
観覧料
一般1,500円(団体割引1,200円、市民割900円)
大学生1,000円(団体割引800円、市民割600円)
高校生以下または18歳未満・丸亀市内に在住の65歳以上・各種障害者手帳をお持ちの方とその介護者1名は無料
※同時開催常設展「猪熊弦一郎展 いのくまさん」観覧料を含みます。
※団体割引は20名以上の団体が対象です。
※市民割は丸亀市民が対象です。チケットご購入時に証明する書類(運転免許証、保険証など)のご提示が必要となります。団体割引を含み、他の割引との併用は出来ません。
◎お問い合わせ先:0877-24-7755(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(愛称:MIMOCA)

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(愛称:MIMOCA)は、丸亀市の市制施行90周年の記念事業として、丸亀市ゆかりの画家・猪熊弦一郎の全面的な協力のもと1991年11月23日に開館しました。
建築家の谷口吉生による美しい建築を丸亀駅前に構える当館は、猪熊本人から寄贈を受けた約2万点の猪熊作品を所蔵し、常設展で紹介するとともに、現代美術を中心とした企画展を開催しています。また、講演会やコンサートなどの多彩なプログラムや、子どもの感性や創造力を育むワークショップなどを開催し、教育を目的とした活動にも力を入れています。
これらの特色は、猪熊と丸亀市とで協議を重ねて作り上げられました。猪熊は、MIMOCAが常に新しいものを積極的に紹介する「現代美術館」であることを強く希望しました。また、自然光を取り込んだ明るく広々とした空間は、美術館に美しい空間を求める猪熊の意思を共有して谷口が形作りました。そして猪熊は子どもが美にふれることを重視し、子どもの観覧料無料や、子どもが造形活動をする「造形スタジオ」の設置などを提案しました。
気軽に立ち寄り、美しい空間でいい作品を見て、新鮮な刺激を受けて心が元気になる場所であることを美術館に求めた猪熊は、MIMOCAのあるべき姿として「美術館は心の病院」という言葉を残しました。猪熊の思いが込められたMIMOCAが、みなさまの「心の病院」となれば幸いです。
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