江戸時代の四谷・新宿・淀橋の町を再現した時代屏風絵巻完成。新宿歴史博物館で公開中
新宿区南部を東から西まで、江戸時代の風景と人々を鳥瞰するプロジェクト
【作者】善養寺ススム
【制作】合同会社入谷のわき
【企画・主催】新宿区、(公財)新宿未来創造財団(新宿歴史博物館)
【共催】新宿区教育委員会
【期間】2021年9月25日〜12月5日
【場所】新宿歴史博物館地下1階ホール
善養寺ススム:江戸文化研究家、時代絵巻作家。著書に時代小説や時代劇向けの『江戸の用語辞典』『江戸の町とくらし図鑑/商店と養生編』など(廣済堂出版)、『The Illustrated Guide to The Fantastic Edo Era』(英語版・入谷のわき書庵)、『Fantastique Edo』(仏語版・Le Lezard Noir)。東京造形大学非常勤講師(サスティナブルデザイン論・文化利用)。各地で江戸文化の講演の他、映画『GIジョー 漆黒のスネークアイズ』では日本ロケで所作指導を勤める。
様々な歴史資料を基に江戸後期を中心として、当時の雰囲気を再現
2014年から四ツ谷駅前の再開発に伴い「四谷塩町一丁目」「麹町十一丁目」「麹町十二丁目」の町をまるごと発掘調査が実施されました。
江戸時代の遺構でも町人地の調査は珍しく、大規模な「麹室(こうじむろ)」群など、当時の人々の暮らしが伺えるものが見つかりました。
また四谷塩町一丁目や内藤新宿下町は江戸時代の住民の記録である「人別書上(にんべつかきあげ)」や「沽券(こけん)絵図」など、多くの文献史料が残されており、表店(おもてだな)だけでなく、裏長屋(うらながや)の住人やその職業までわかっているのも興味深いところです。その他明治初期〜大正時代の写真資料なども用いて、江戸後期を中心に、当時の雰囲気を再現した屛風絵巻となっています。
そして、もっとも楽しんでもらいたいのは、この絵巻の中に暮らす人々です。発掘調査の結果や、沽券絵図、当時の書籍などから、どのような商売の人々が住んでいたのか、ひとりひとりその人生を想像しながら描き込んであります。そのこだわりは、それらの人々の暮らしを感じることで、屛風絵巻の町が活き活きとして来るからです。
デジタルで描かれた原画はそれぞれ幅880x高320cm(200dpi)あり、今後も新たな資料を参考に成長させ、デジタルならではの汎用性を用いて様々な利用に対応して行く予定です。利用方法のアイデアも募集しています。
また、江戸四宿(新宿の他、千住・板橋・品川)や渋谷などのほか、全国の宿場、城下町を再現する時代絵巻の制作などにも意欲的に取り組みたいと考えています。
★新宿区内の商店や企業など、規模や内容によって無料で画像の一部を利用可能です。
詳しくはホームページ又はFacebook、Instagramのメッセージよりお問い合わせください。
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1)『四谷翔覽屛風絵巻』(よつや しょうらん びょうぶえまき)
JR四ツ谷駅前から四谷二丁目付近を再現。再開発されたコモレ四谷の敷地は、建物の屋根が瓦葺きか杮葺き(こけらぶき=板屋根)かが沽券絵図によって分かっていて、建物の間取りと共に、町が再現されています。
そして、町の主人公は住人たちです。善養寺の作品には、そんな史料には直接残らない人々の人生を、ひとりひとり想像して描かれています。ぐっと近寄ってみると、活き活きと描かれた人々を観察する事ができます。
四谷に多かった職業は、竹・木材屋、炭・薪屋・塗師そして鍛冶屋だったことが、発掘や沽券絵図で分かっています。また、塩町の北と四谷伝馬町一丁目(現・新宿通り)の南側は武家地でした。
〇四谷御門/四谷見附
現在の四ッ谷駅・麹町口です。駅や駅ビルは堀の中に位置します。この四谷御門/見附は江戸城の外郭門で、ここから外の四谷は江戸城の外になります。当時の石垣などが僅かですが残ります。駅ビル内外にも歴史解説展示いくつかあります。
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〇四谷見附橋と掛樋
四谷御門と四谷の町をつなぐ橋が四谷見附門です。現在はJR四ツ谷駅・麹町口の北側に掛かる小さな橋にあたります。そしてここには、玉川上水を江戸市中に引き込む掛樋が2本(時代によっては3本)かかっていました。
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〇火の見梯子と町火消
四谷御門外の橋詰には火の見梯子がありました。屋根より高い梯子に登るのは、けっこう勇気が必要ですね。もちろん、登るのは火消し衆・五番組「く組」の人々でした。
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〇狂歌師(きょうかし)
江戸時代に人気になった、古典和歌を読み替える詩・狂歌を詠む狂歌師たちもこの地域で活動していました。戯作者としても知られる大田南畝は牛込で、塩町には山田早苗がおりました。(狂歌とは、古典和歌を元に作るサンプリング和歌や駄洒落和歌のようなもの。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも人気)
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〇地下の麹室(こうじむろ)
この地域には麹室がたくさん発掘されました。主に江戸前期に作られた、土の中を掘り進んで作った「地下式」と江戸中期以降の、穴を掘って丸太を渡し天井とした「開削式」の二種類があります。塩町からは、珍しい放射状の地下式室が多く発掘されました。生産された麹は家庭用に販売されるのが主だったようです。幕末の記録では、麹を使った商店は一軒のみ、味噌店・加賀屋があります。
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〇新宿通りはお堀に突き当たる
江戸時代のメイン通りは内藤新宿から向かって、大横町を左に曲がり、麹町十一丁目の竹町通り(現・三栄通り)を抜けて四谷御門へ進みました。そのため、甲州街道(現・新宿通り)は真っ直ぐ進むとお堀に突き当たり、主に赤坂へ下る道として使われました。現在の新宿通り・四谷見附橋が架けられるのは明治になってからです。
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〇四谷にもある麹町
麹町といえば、江戸城半蔵門から続く町ですが、四谷御門の外にも十一丁目~十三丁目がありました。何故、ここにも麹町があるのかちょっと不思議ですが、実は、もともとはひとつに繋がっていたところに、後からお堀が開削されたため、町が分断されたものでございます。 Media Kit : Kohjimach.png
〇お岩さんの町
鶴屋南北作の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」は、「仮名手本忠臣蔵」と合わせて作られ、忠臣蔵が男性の仇討ち、四谷怪談は女性の仇討ち物語りとなっています。お話の元となったとされる、田宮家は左門殿町(現・左門町のお岩稲荷)にありましたが、実話ではなく創作怪談として江戸時代から楽しまれたものです。
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〇よく知られた店
江戸時代に出版された名店目録『江戸買物独案内』などに残る名店は、何丁目にあったかまではわかりますが、その町の何処にあったかまでは分かりません。それらの店は想像で描かれ、灰色の短冊に△印をつけてで示してあります。
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〇塩町の寄席(よせ)
塩町には講談寄席がございました。当時は講釈とよばれ軍記や家康の功績を語り、やがて落語のような話芸となりました。 Media Kit : yose.png
〇塩町の仇討ち(あだうち)
仇討ちは武家の作法で、事件・仇を領主に申し出て行われます。この仇討ちはの主人公・宇一は高崎の足袋職人の子でしたが、剣術師の養子となったことをきっかけに仇討ちを志したそうです。当時の瓦版や幕府の記録など複数の資料があり、実際にあった事件として確認されています。 Media Kit : Adauchi.png
2)『内藤新宿翔覽屛風絵巻』(ないとうしんじく しょうらん びょうぶえまき)
描いてあるのは、新宿御苑の東端にある、四谷大木戸(よつやおおきど)から、伊勢丹の建つ青梅街道と甲州街道の追分(おいわけ)、現・新宿三丁目近辺です。四谷翔覧より倍ほど縮尺が小さく、広範囲を描いています。
広大な内藤家下屋敷は、現・新宿御苑にあたりますが、現在よりももっと木がうっそうとしていた様子が当時の絵に残されています。その下屋敷前の現・新宿通りを行くのが、高遠藩・内藤家八代当主の大名行列です。
内藤新宿は他の江戸3宿と比べて新しい宿場です。江戸の歴史の半分には存在していませんでしたし、一度は廃宿ともなっています。駅宿は基本的に武家の通信運輸を円滑に行うための施設なので、甲州街道を使う武家が3家のみだったため、必要性がなかったとされます。
それでも庶民の物流は活発で、特に馬運で新宿は栄えていました。そのため、名物として馬と馬の糞が浮世絵『名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿』(歌川広重)に描かれているほどです。
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〇内藤新宿の住人
内藤新宿の下町(しもまち)も四谷塩町と同じように、当時住んだ人々史料が残っており、裏長屋の住人まで知ることができます。Media Kit : jyunin.png
〇青物問屋
内藤新宿の主要産業は運輸でした。中でも青物(葉野菜)を扱う店が裏長屋にもたくさんありました。Media Kit : aomono.png
〇宿場の茶屋
宿場の茶屋は女郎屋(飯盛旅籠)に客を案内する店です。新吉原では引手茶屋とも呼ばれます。そして、即席料理屋は茶屋や旅籠に宴会用の食事を提供します。Media Kit : chaya.png
〇水番小屋(みずばんごや)/水番屋
玉川上水の水番小屋では、水質や水量を監視する他、落ち葉などのごみの除去もしていました。
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〇大名行列
大名行列の中心は御殿様の乗物(駕籠)でございます。約600人が領地である高遠(伊那市高遠町)へ向かいまいた。石高は3万3千石なので、行列としては小さい方です一番大名の加賀藩・前田家は2千人もいたそうなので、そうなるとこの屏風を飛び出してしまいます。
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〇狂歌師
内藤新宿にはたくさんの狂歌師が住んでおりました。中心人物の平秩東作をはじめ、個性豊かな人々が江戸後期の文化を彩りました。主に内藤新宿の店主たちで、女性もおりました。
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〇四谷大木戸(よつやおおきど)
江戸初期には扉がありましたが、やがて取り払われました。四谷塩町三丁目と内藤新宿下町との境となります。そして、玉川上水はここから地下配管を通って、掛樋で堀を渡って四谷御門から江戸市中へ送られます。
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〇内藤家下屋敷(ないとうけ しもやしき)
現在の新宿御苑のおよそ3/4が高遠藩内藤家の下屋敷でした。理性寺の前に表門があり、火の見櫓も建っていました。ちなみに上屋敷は神田小川町にありました。
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〇名産・内藤唐辛子
内藤新宿では唐辛子が名産品でした。蕎麦やうどんの辛味として人気がございました。
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〇上町(かみまち)・追分(おいわけ)
現在、伊勢丹デパートのある新宿三丁目交差点が、青梅街道と甲州街道の分かれ道(追分)です。この辺りが内藤新宿の上町と呼ばれます。追分のまん中で暴れている馬は、浮世絵『江戸名所外尽四十九 内藤志ん宿』で広重が描いたシーンです。茶屋へ運ばれる料理が馬に蹴られて宙を舞います。
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〇出土した生活道具
内藤新宿のごみ捨て場の発掘によって宿場町で使われた食器や豚の蚊遣りなどがみつかりました。蚊遣りは現代にもよく見るブタ型の蚊取り線香入れの先祖です。酒徳利の職人が徳利を改良して作ったようで、新宿歴史博物館には複製模型も展示されています。
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3)『成子淀橋十二社翔覽屛風絵巻』(なるこよどばしじゅうにそう しょうらん びょうぶえまき)
この屛風絵巻は、青梅街道の柏木成子町の木戸から淀橋を超えた中野下町、現在では損保ジャパン本社ビルのある西新宿一丁目から中野区本町一丁目、そして都庁の西側にある十二社熊野神社の範囲が描かれています。
街道沿いには町屋が並びますが、その他はほとんどすべて田畑です。画面下を流れるのは神田川で、川の周辺には田んぼが広がります。神田川は北に向けて大きく迂回し、落合、早稲田、市谷へと流れていきます。その田んぼの広がる風景は、景勝地として、蛍狩りの里として愛されました。
現在は高層ビルが建ち並ぶ場所は画面の右半分ですが、ほとんど畑でした。そして、その中にオアシスのように存在するのが、十二社熊野権現です。ここには二つの大きな溜池があり、人々の憩いの場として、たくさんの菰掛(こもがけ=簡易)の茶屋がならんでいました。江戸時代には珍しく、水泳を楽しむ人もいたようです。現在は埋め立てられて十二社通りとなっています。
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〇成子の木戸
町村の境には扉のない木戸が設置されていました。街道では宿場の入口に棒鼻という木杭の道標で境を表すのが一般的です。街道の維持は各町村の担当なので、扉がなくても重要でございます。
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〇狂歌師と田園
大田南畝らの文化人たちが、田園風景と名月を眺めて、詩を詠んだ『望月帖』が残されています。地域は神田川の北方面で、百人町から歩き、小滝橋、落合を歩き、大久保へ戻るコースでした。
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〇成子坂(なるこざか)
内藤新宿を過ぎると、青梅街道は柏木成子町となります。名前の通りこの地域は成子天神の町で、成子坂はその中心です。茅葺き屋根の町屋が並び、商売をする者も農家もありました。
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〇爆発する水車小屋
江戸郊外には水車が多くあり、淀橋にもありました。久兵衛の水車小屋には50据の臼があり、米や麦をついていました。幕末になると、黒船の来航などで外国船からの防衛が必要になり、銃砲の火薬を作るために、民間の水車が御火薬所となりました。ところが、火薬製造には詳しくないため、あちこちで水車爆発事故が起こりました。
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〇淀橋(よどばし)
神田川にかかる青梅街道の橋です。江戸時代には旅行記に淀橋の風景が残され、明治になりますと多くの写真が撮られていることから、景勝地として人気があったようです。川沿いには茶屋が並び、景色を楽しみながらお茶や菓子を楽しんでいます。当時は、淀橋と小淀橋のふたつの橋が架かっていました。
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〇ひろがる田園地帯と神田川
神田川沿いには田んぼが広がり、のんびりとした景色でした。川は早稲田を回って水道橋から江戸市中に入ります。落合付近は蛍の名所としても知られました。本来は江戸城の内堀に繋がっていましたが、元和六年(1620)に水道橋からお茶の水の神田山を削って、秋葉原へ流れるようにつけ替えられました。
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〇熊権現十二社(くまのごんげん じゅうにそう)
現・十二社熊野神社。十二社とは、十二の神(仏に身を変えて現れたもの=権現)の社のことでございます。当時はふたつの溜池があり、その脇には玉川上水から神田川へ水を補給する助水堀が流れていました。ここには滝があり、池と共に名所として人気を集め、たくさんの菰掛けの茶屋が並んでおりました。
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〇隠れている妖怪
さらに、妖怪も住人として潜ませてあります。妖怪たちがどこに隠れているのか、会場にはクイズ用紙を設置してありますので、探してみてください。
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「2021©Zenyoji / 新宿歴史博物館」
【新宿歴史博物館 令和三年度特別展の概要】
「四谷塩町(しおちょう)からみる江戸のまちー近世考古学の世界―」
https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/news/103495/
【会 期】令和3年9月25日(土)~12月5日(日)
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