ピレリ150周年記念 その歴史を辿る
2022年、ピレリは創業150周年を迎えました。ジョバンニ・バティスタ・ピレリによる会社創業から今日に至るまでの歴史をご紹介します。
インダストリアル・ストーリーの原点: ジョバンニ・バティスタ・ピレリによる創業
ジョバンニ・バティスタ・ピレリは、1848年12月27日、コモ湖畔のヴァレンナで生まれました。彼は、ミラノ工科大学で工学の学位を取得した後、22歳の時に奨学金を得て、スイス、ドイツ、ベルギー、フランスを巡りました。その旅では、繊維、機械、鉄道、冶金などの工場を視察しましたが、中でも彼の目を奪ったのがゴムの加工工場でした。
彼はイタリアに戻ると、24のパートナーの支援を受けて、ゴム製品を製造するための国内初の会社を設立しました。
こうして、1872年1月28日、ミラノに「G.B. Pirelli&C.」 が誕生したのです。
活動開始の年: 技術商品用ゴムからケーブルまで
1873年、ミラノのポンテ・セベソ通り(現在のファビオ・フィルツィ通り)にある最初の工場で、フランス人のエメ・グラールの技術指導のもと、伝動ベルト、バルブ、絶縁体など、蒸気機関や鉄道用の産業用工具、そして機械に関連するさまざまな製品を中心に生産活動が始まりました。商業面では、最初の広告を制作し、ミラノの中心地モンテナポレオーネ通りに店舗をオープンしました。その後、グラールに代わってピレリの共同経営者となったフランソワ・カサッサの指導のもと、玩具、スポーツ用ボール、レインコートやさまざまな小物など、消費財の生産に力を入れました。10年後には、生産はさらに拡大していきました。1879年には、新たにケーブル分野での生産が開始されました。これは、それまで英国が独占していた分野で、この分野での成功が、ピレリをヨーロッパ大陸のリーディングカンパニーに押し上げました。エマニュエレ・ジョナ、レオポルド・エマニュエリと彼の息子ルイジによってもたらされた技術革新により、電気伝送ケーブルの分野で、本土と島を結ぶ最初の海底電信ネットワークと、鉄道電化のための政府契約を獲得したのです。その後も、ナイアガラの滝、ナイル川、スペイン、アルゼンチン、アメリカ、フランスでのエネルギーケーブルの契約などを獲得していきました。1883年1月1日、オペラシーズンのオープニングで、ミラノのスカラ座は、初めてピレリのケーブルで送電された2,880個の白熱灯で照らされました。1886年、海辺の町ラ・スペツィアにピレリは海底ケーブルの工場を作り、翌年にはケーブル敷設船「ミラノ市号 / Città di Milano」を進水させました。
20世紀のピレリ: 最初のタイヤと北京-パリ 大陸横断ラリーでの勝利
20世紀初頭、自動車産業の発展とともに、ピレリは1890年、二輪車用タイヤの生産を開始し、次いで1901年、自動車用タイヤも生産を始め、「Ercole(エルコーレ)」を発表しました。1907年の「北京-パリ 大陸横断ラリー」では、スキピオーネ・ボルゲーゼ王子とジャーナリストのルイジ・バルジーニが、ピレリタイヤを装着した「Itala(イターラ) 」で17,000kmの泥と埃にまみれた未舗装路を走りきり、他のチームより20日以上も引き離してゴールを果たしたことで、ピレリの名声はさらに高まったのです。1908年、ピレリはケーブル、タイヤ、多品種生産の3つの分野で、共通の特徴的なロゴを誕生させました。今日でもピレリを表現する特徴的な長いPは、細長いPを使った創業者のサインから着想を得ています。1877年に病気の従業員のための共済基金が設立された後、1902年には会社と従業員団体との間で、ピレリにとって初めての労働条件改善のための契約が結ばれました。
世界の中のピレリ: 多国籍企業の誕生と株式市場上場
1902年、バルセロナ近郊のビラノバ・イ・ラ・ヘルトルにスペイン工場がオープンし、ピレリは遂に海外に進出しました。1913年にはイギリスのサウザンプトン、1917年にはアルゼンチンで生産を開始しました。一方、イタリアでは1916年にヴェルクラーゴ(レッコ)で生産が始まりました。1920年、海外拠点はブリュッセルで設立されたCompagnie Internationale Pirelliにグループ化され、イタリアの拠点はミラノに設立されたSocietàItalianaPirelliに集約されました。
第一次世界大戦が勃発すると、軍との契約により生産が増強されました。平和が訪れると、ピレリのケーブル技術の優位性から、世界各地で重要なライセンスを取得し、タイヤ部門が優位に立つようになりました。その結果、スペインのマンレサ工場(1924年)、イギリスのバートンオントレント工場(1928年)、ブラジルの第一工場(1929年)など、新たなタイヤ工場が次々と誕生しました。こうしたゴム産業の成長により、1922年には工場の中心地であるビコッカ・デッリ・アルチンボルディに「MuseodellaGomma delle Industrie Pirelli(ピレリ産業ゴム博物館)」が開設されました。一方、タイヤ部門では、さまざまな技術革新により、ピレリコード(1921年)、スーパーフレックスコード(1924年)、ステラビアンカ(1927年)といった革新的な製品が発売され、1930年代から1940年代にかけて、大きな人気を博しました。ピレリ・モトコードを装着したグッツィ、ジレラ、ビアンキがスピードの新記録を樹立するなど、この時期はモーターサイクルレースが盛んな時期でもありました。この同時期、1922年にミラノ証券取引所に上場した後、1929年にPirelli & C.はウォール街で上場し、アメリカの証券取引所に上場した最初のイタリア企業となりました。
1930年代から第2次世界大戦まで: 経営陣の交代
1932年、創業者のジョバンニ・バティスタが他界しました。彼の息子ピエロとアルベルトは、すでに会社で確固たる地位を築いており、それぞれ会長と副会長に就任しました。この頃ピレリは、合成ゴムを天然ゴムに、高抵抗のレーヨンや人工ワイヤーをカーカスの素材である綿に置き換える可能性を検討していました。ジュゼッペ・ビゴレッリのような革新的なアイデアが炸裂した時代でもあります。ロンバルディア州のピレリ社のセールスディレクターであった彼は、サイクリングに熱中し、1935年にミラノに自分の名前を冠したベロドローム(自転車競技場)を建設しました。
第二次世界大戦が始まると、タイヤの生産は軍用、特に大型車用へとシフトしていきます。1943年、ミラノの工場は爆撃で被害を受けましたが、1946年、ピエロおよびアルベルト・ピレリによって再建が開始されました。この時代は、実用的な車やスクーターなど、大衆的で経済性の高いものが主流でした。1940年代末、ピレリ・ステルビオは大衆車フィアット・トポリーノの標準タイヤとなっただけでなく、当時のカーレースでは、ドライバーのアルベルト・アスカリとピレリを装着したマシンが、グランプリや世界選手権で42勝をあげるなど、その名を知られるようになったのです。
好景気の時代: 最先端の産業文化
第二次世界大戦後、ピレリの文化的活動が高まり、コミュニケーション上の革新が起こります。1947年にミラノでピレリ文化センターがその活動を開始すると同時に、ピエロ・ピレリと彼の甥ジョバンニ(アルベルトの息子)は、ミラノ・ピッコロ劇場の創設時からの支援メンバーになったのでした。1948年、会社は一般向けの会社出版物の、最初でかつ最も重要な例の一つである "Rivista Pirelli "誌を創刊し、人文科学と技術科学的な文化の融合を目指したのです。この雑誌の寄稿者には、Dino Buzzati, Camilla Cederna, Gillo Dorfles, Umberto Eco, Carlo Emilio Gadda, Eugenio Montale, Umberto Saba, Leonardo Sciascia, Salvatore Quasimodo, Giuseppe Ungaretti そしてUmberto Veronesiが名を連ね、Renato Guttuso, Ugo Mulas, Enzo Sellerio, Fulvio Roiter, Manzi and Alessandro Mendini そして Riccardo Manziなどの芸術家が写真やイラストを提供したのです。当初から、広告やコミュニケーションの歴史の一部となるようなプロジェクトで、ピレリは、最先端を行く会社として、際立った存在だったのです。1964年に初めて発行されたピレリカレンダーは、カルト的な人気を博し、現在では48版を数えるまでになりました。
好景気の時代、カスタマイズカーの登場とともに、ピレリはラジアルタイヤを発明し、1951年にはチントゥラート・ピレリで特許を取得します。1954年、ピレリのもうひとつの発明が、コンパッソ・ドーロ賞を受賞し、歴史に名を刻みました。それが、玩具部門の責任者であったブルーノ・ムナーリがデザインした発泡ゴム製の小猿のおもちゃ「ジジ」です。
1956年、ピエロ・ピレリが他界し、弟のアルベルトに引き継がれ、息子のレオポルドが副会長に就任しました。
数年後の1960年、建築家ジオ・ポンティの設計による新本社ビル「ピレリ・スカイスクレイパー」がミラノに落成しました。一方、タイヤ産業においても、国際的な事業拡大が進んでいました。1960年には、イズミット(トルコ)とパトラッソ(ギリシャ)に工場を建設し、アルゼンチンやイギリスにも工場を建設しました。1963年、ピレリはドイツのVeith Gummiwerkeを買収し、Veith Pirelli AGとなりました。
1960年代には、セッティモ・トリネーゼ、ビラフランカ・ティレーナ、カーライル(英国)で活動を開始し、ティチーノ州ヴィッオーラにテストコースを開設しました。このテストコースは、現在も使用されています。
1970年代から1990年代にかけて: 新しい組織と国際的な再出発
1965年、アルベルト・ピレリは会長職を息子のレオポルドに譲り、レオポルドは25年にわたり会社のトップに立ち続けることになりました。1971年10月19日にアルベルト・ピレリがこの世を去り、1973年4月3日にはジョバンニ・ピレリが交通事故で亡くなり、弟のレオポルドも負傷しました。
この年の後半には、初の超低偏平・高性能タイヤであるP7が発売されました。1980年代、ダンロップとの合併が不成立に終わった後、ピレリは技術革新と国際化の道を歩み続けました。この時期、ドイツのメッツェラー社(モーターサイクル用タイヤ)とイギリスのスタンダード・テレフォン・ケーブル社(地上通信用ケーブル)を買収し、モーターサイクル用ラジアルタイヤMP7と、転がり抵抗の少ない自動車用ラジアルタイヤP8を開発したのです。1985年、ピレリはスーパータイヤP Zeroを設計し、同年、25年ぶりにフォーミュラ1に復帰、イギリスのトールマン・チームにP7ラジアルを装着し、ブラバム、ロータス、ベネトンといったチームと1991年まで契約しました。
1978年にピレリの高層ビルがロンバルディア州に売却された後、1980年代後半には、建築家ヴィットリオ・グレゴッティに委託して、生産工場をサービス施設に転換するビコッカ・プロジェクトが開始されました。10年後、ピレリはアメリカのアームストロング・タイヤ・カンパニーを買収し、タイヤ事業におけるすべての資本はピレリ・タイヤ・ホールディングにまとめられました。一方、1990年には、ピレリ・ベネズエラが設立されました。1990年代前半、ピレリは市場の不況とコンチネンタルAGの買収計画不成立の結果として、企業および財務のリストラに巻き込まれました。その後、レオポルド・ピレリは辞任し、1992年には、1987年から経営パートナーであったマルコ・トロンケッティ・プロヴェーラが後任として経営に携わり、新製品開発、非戦略的活動の整理、国際化の再スタートを通じて会社の再建に成功しました。
新たなミレニアム: 生産プロセスの革新と多様化
新たなミレニアムの始まりは、タイヤ生産に新たな革命をもたらしました。ピレリは高性能タイヤの自動生産のためのMIRSTM生産プロセスの特許を取得し、2001年にMIRSTMで生産された最初のタイヤと、新しいランフラットテクノロジーを発表しました。短期間のうちに、ドイツ、英国、米国でMIRSTMのミニ工場を立ち上げました。新技術の開発のために、ピレリはフォトニクス、ファイバーオプティクス、材料科学の分野を扱うピレリラボを設立しました。事業多角化の一環として、またケーブル事業を通しての電気通信の経験により、2001年にピレリはテレコム・イタリアの主要株主となり、その後2007年にその座を退きました。
さらに2001年には、10年にわたる不動産セクターの成長を背景にPirelli REを設立し、2002年に上場させました。同年、グループはアパレルラインのピレリPzeroを立ち上げることで、ブランドを強化しました。それは、現在でもPirelli Designとして継続されています。2004年には、ブロードバンドとフォトニクスの分野でピレリ・ブロードバンド・ソリューションズを、そして再生可能エネルギーと環境の分野でピレリ・アンビエントを立ち上げました。この年はまた、ピレリがヨーロッパ最大級の現代アートスペースであるピレリ・ハンガービコッカの創設メンバーになった年でもあり、現在、このスペースはすべてピレリが資金を提供して管理しています。
また、2004年には、スーパーバイク世界選手権の単独サプライヤーになりました。この契約は2023年まで継続され、国際的なモータースポーツの歴史の中で最も長いものとなっています。
タイヤへの再集中と国際化の推進
ピレリは、2005年にケーブル部門をゴールドマン・サックス証券に売却した後、中核となるタイヤ事業に再び集中し、その結果、不動産事業とブロードバンドソリューション事業から撤退することになりました。2005年には中国に最初の工場を開設し、ルーマニアに2つの工場を開設しました。
2012年には、インドネシアに二輪車用タイヤ生産の合弁会社を設立し、北米市場向けにメキシコ工場も開設しました。
さらに2016年にはメキシコ工場を、2021年にはアルゼンチン工場を増設しました。
世界でのポジションを強化しながら前に進む中、2007年1月23日、名誉会長のレオポルド・ピレリがポルトフィーノで82年の生涯を閉じました。翌年、ピレリの遺産を保護・強化し、企業文化を広めることを目的に、グループはピレリ財団を設立しました。
2000年代後半、ピレリは3年契約でフォーミュラ1に復帰して(2010年)、その後2024年まで契約を更新し、ピレリでも最先端の技術を誇る工場のひとつであるセッティモ・トリネーゼの新しい産業ハブの運営を開始しました。これは、すでにセッティモにあった歴史的な工場を改造して生まれたものです。ハブの中心である「スピナ」は、最先端のサステナブルな環境・社会基準に基づいて、建築家レンゾ・ピアノが設計したものです。
今日のピレリ: ハイバリュー、サービス、ニューモビリティ
2015年、古参の株主であるカムフィン、 ケムチャイナ、 Lti は、マルコポーロ・インダストリアルを通じて、ピレリの上場廃止と会社再編を目的とした公開買付を開始しました。産業用タイヤ事業を切り離したピレリは、2017年10月4日に証券取引所に復帰し、自動車、オートバイ、自転車用タイヤ、特に技術的内容の高い「ハイバリュー」セグメントに焦点を当てた「純粋なコンシューマー向けタイヤ企業」に変貌を遂げました。ピレリは、技術の融合と環境負荷の抑制、性能、安全性の向上に取り組み、株式市場への復帰後、すぐに世界トップのサステナビリティ指標で上位の地位を獲得し、ESGの分野で多くの賞を受賞しました。
12カ国にある全18工場では、デジタル革命により、ビッグデータによる新しい予測機能、自動化された生産工程、新しい組織モデルがもたらされ、ファクトリー4.0につながりました。2017年にセッティモ・トリネーゼ産業ハブでマエストロ・サルバトーレ・アカルドが指揮した「Il canto della fabbrica」(「工場の歌」)コンサートのインスピレーションもここにありました。技術革新とヒューマニズム文化の融合を続け、10年以上にわたる年次報告書内でも、ハニフ・クレイシからハビエル・マリアス、エミリアーノ・ポンジからライザ・ドネリー、モフシン・ハミドからエマニュエル・カレールまでなど、芸術や文学の世界における、国際的著名人との、非常に豊かなコラボレーションが続けられています。
ウィンタースポーツの分野では、世界スキー選手権とアイスホッケー、セーリングではルナ・ロッサ・プラダとパートナーシップを結び、プラダ・カップで優勝し、2021年のアメリカズカップの決勝戦に出場しました。1995年に始まったFCインテル ナツィオナーレとのパートナーシップは一新され、過去25年間に渡りユニフォームスポンサーを務めていたピレリは、チームのグローバルタイヤパートナーとなったのです。
2020年、Covid-19が蔓延する世界においても、ピレリはその活動継続を宣言し、事業を展開する地域社会を支援する数々のイニシアティブを開始しています。1967年と、1975年から1983年にかけて、中断を余儀なくされたこともあるピレリカレンダーの2022年版はブライアン・アダムス撮影による、旅先での生活をイメージしたカレンダー「On The Road」です。ウイルスの影響による減速の後、2021年にピレリは新しい産業計画を発表し、サービスや、新しい形のモビリティの推進を伴う、高付加価値の新たな産業構造を推し進めています。電気自動車向けには「Elect」テクノロジーを開発し、サイクリング分野ではボラーテ工場の改革に着手、スペシャリティ分野ではセンサーとCyberへの集中を強化し、プレミアムとプレステージセグメントにおいては19インチ以上のタイヤに注力しています。タイヤのリムサイズの拡大はフォーミュラ1にも及び、2022年には18インチの、ピレリによる新タイヤが採用されました。これこそ、3万人を超える従業員と、情熱、革新性、テクノロジーからなる永遠のDNAによって、日々、自己を研鑽し、成長し続ける企業の150年に渡る歴史と、サーキットでの小さな、しかし大きな革新が重なった瞬間なのです。
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