地元小学生と製作した町の文化財「赤塩焼」のタイルを8月にオープンする飯綱町役場新庁舎に貼り付けます!
〜 小学6年生約80人が貼り付けます 〜
5月に陶芸家の指導の下、地元の小学6年生と一緒に製作した「赤塩焼」のタイルを、8月にオープン予定の飯綱町役場新庁舎の連絡通路に、地元小学生約80人が貼り付けます。
江戸時代後期、文久3(1863)年から60年ほど飯綱町赤塩地区で焼かれていた焼物、赤塩焼。2016年8月に地域おこし協力隊として就任した陶芸家の冨高俊一氏(現在は集落支援員)が中心となり、地域の皆様とともにその伝統復活を目指し、赤塩焼の再現を進めています。小学生とともに再現し製作した赤塩焼タイル約2,000枚を、新たに完成する飯綱町役場庁舎の連絡通路に、子どもたちが思いをのせて貼り付けます。
江戸時代後期、文久3(1863)年から60年ほど飯綱町赤塩地区で焼かれていた焼物、赤塩焼。2016年8月に地域おこし協力隊として就任した陶芸家の冨高俊一氏(現在は集落支援員)が中心となり、地域の皆様とともにその伝統復活を目指し、赤塩焼の再現を進めています。小学生とともに再現し製作した赤塩焼タイル約2,000枚を、新たに完成する飯綱町役場庁舎の連絡通路に、子どもたちが思いをのせて貼り付けます。
【URL】飯綱町公式ホームページ https://www.town.iizuna.nagano.jp/
□日 時 7月15日(木)午前10時40分ごろから
□場 所 飯綱町役場 連絡通路
□参加児童 牟礼小学校6年生53名、三水小学校6年生30名、計83名の予定
■赤塩焼(あかしおやき)とは
江戸時代末期から昭和初期にかけて、信濃国水内郡赤塩村毛野、現在の長野県上水内郡飯綱町赤塩毛野で小林栄十郎(栄重郎)・作治郎の父子2代の陶工が創業した焼き物を「赤塩焼」と呼んでいる。赤塩焼の窯は信濃国では最北辺の陶器窯であり、庶民の暮らしに必要な器がつくられ、焼き物の大産地から遠いこの地の人々に歓迎されたという。また明治の近代化が進むなか、鉄道敷設に必要な煉瓦の製造を請け負い、日本列島のインフラ整備に大いに貢献した。
ちなみに「赤塩焼」の呼称は、昭和40年代に唐木田又三氏(松代焼の再興に尽力した陶芸家)が作治郎の孫の小林義治氏と相談して命名したもので、窯があった当時からの名称ではないが、現在では国産陶器の固有名詞としておおむね認知されている。(出典:「いいづな歴史ふれあい館 信州赤塩焼-北信濃に残る陶工の技」より一部改変)
【お問い合わせ先】
飯綱町総務課総務係
TEL:026-253-2511(平日 8:30~17:15)
e-mail:soumu@town.iizuna.nagano.jp
■日程等について
□日 時 7月15日(木)午前10時40分ごろから
□場 所 飯綱町役場 連絡通路
□参加児童 牟礼小学校6年生53名、三水小学校6年生30名、計83名の予定
■赤塩焼(あかしおやき)とは
江戸時代末期から昭和初期にかけて、信濃国水内郡赤塩村毛野、現在の長野県上水内郡飯綱町赤塩毛野で小林栄十郎(栄重郎)・作治郎の父子2代の陶工が創業した焼き物を「赤塩焼」と呼んでいる。赤塩焼の窯は信濃国では最北辺の陶器窯であり、庶民の暮らしに必要な器がつくられ、焼き物の大産地から遠いこの地の人々に歓迎されたという。また明治の近代化が進むなか、鉄道敷設に必要な煉瓦の製造を請け負い、日本列島のインフラ整備に大いに貢献した。
ちなみに「赤塩焼」の呼称は、昭和40年代に唐木田又三氏(松代焼の再興に尽力した陶芸家)が作治郎の孫の小林義治氏と相談して命名したもので、窯があった当時からの名称ではないが、現在では国産陶器の固有名詞としておおむね認知されている。(出典:「いいづな歴史ふれあい館 信州赤塩焼-北信濃に残る陶工の技」より一部改変)
【お問い合わせ先】
飯綱町総務課総務係
TEL:026-253-2511(平日 8:30~17:15)
e-mail:soumu@town.iizuna.nagano.jp
このプレスリリースには、メディア関係者向けの情報があります
メディアユーザーログイン既に登録済みの方はこちら
メディアユーザー登録を行うと、企業担当者の連絡先や、イベント・記者会見の情報など様々な特記情報を閲覧できます。※内容はプレスリリースにより異なります。
すべての画像
- 種類
- その他
- ビジネスカテゴリ
- 政治・官公庁・地方自治体建築・空間デザイン
- ダウンロード