あなたのまだ知らない横浜がここにある! 市内各所を自らの足で丹念に歩いた著者が、横浜という街のさまざまな歴史に出会うエッセイ『ディープヨコハマをあるく』が発売!
- 内容紹介
日本最大の人口を擁する市、横浜。
観光地としても有名な横浜だが、開港以前の歴史をいまに伝える道、戦争の傷跡、アメリカが息づく場所、路地裏の名店…といった知られざる“ディープヨコハマ”も数多く存在する。
本書は、東京で生まれ横浜で育った著者が「桜木町・野毛」「関外」「関内」「中華街・元町・山手」「本牧・根岸・磯子」「神奈川」「鶴見」「港北」「保土ケ谷・戸塚」など市内各所をみずからの足で歩き、“ディープヨコハマ”の魅力をそこで暮らす人たちの証言や、往時の雰囲気を切り取った文学や映画を通して描き出していく一冊。
巻末には、港北区生まれのギタリスト小野瀬雅生(クレイジーケンバンド)の特別インタビューも収録。
- 著者とヨコハマのかかわり
1982年11月24日、東京都台東区の病院で生まれ、幼少期は文京区小石川で育つ。
江戸川区西葛西、埼玉県所沢市と移り住んだのち、小学4年生のときに横浜市保土ケ谷区鎌谷町に引っ越す。
坂の多い丘陵地で、小中学校は黒澤明監督の映画『天国と地獄』の舞台となった浅間台にあり、三ツ沢公園や相模鉄道沿線の天王町・星川周辺を遊び場としていた。
高校に入学する頃、市営地下鉄の弘明寺駅にほど近い横浜市南区中里に引っ越し、港北ニュータウンの私立校に通いながら、伊勢佐木町・関内周辺の映画館や古書店に入り浸る。日本映画学校(現・日本映画大学)を卒業後、映画館や出版社でアルバイトをするが、不運に憑かれてつぎつぎに失職し、野毛界隈をうろつく日々がつづいた。
やがてフリーランスの編集・文筆業となり、横浜を離れて東京人にもどるが、『ディープヨコハマをあるく』の取材をはじめた2018年、思い止められずハマへ帰還。
本牧の海を望む高台を拠点に本を書き上げる。
- 主な内容
・萬里秘宝十九番
・野毛にジャズ喫茶あり
・大岡川スラム
・野毛の文学者たち
・伊勢佐木書店今昔
・牛鍋を喰う
・「共通の根」をもつこと――寿町
・中村町の記憶
・永真遊郭と曙町
・ガス灯と西洋料理――馬車道
・横浜における中国人コミュニティの歴史
・中華街の裏通り
・元町の坂
・バンドホテルの時代
・本牧の不良文化が生み出した音楽
・本牧十二天とチャブ屋
・失われた梅林と劇場
・朝鮮人虐殺の犠牲者を弔う
・弘明寺――横浜最古の寺のまち
・刑務所のある風景
・金沢八景の今昔
・横浜西口の盛り場
・みなとみらいの「過去」
・港湾労働者の海とマンハッタン
・行きどまりのバー
・子安・大口――まちにのこる戦時の面影
・浦島太郎伝説
・鶴見三業地
・沖縄人コミュニティと青線地帯
・日吉にみる「横浜vs川崎」の歴史
・綱島の桃源郷
・原節子が無名の少女だった頃
- 本文より一部紹介
開港後、肉食文化が日本に根づく過程で、重要な役割をはたしたのが牛鍋である。
江戸時代、獣肉食が禁じられた日本では、牛肉はもっぱら養生薬の材料としてもちいられた。ただし、長崎など一部の地域では猪をはじめ獣肉食の習慣があり、大阪、京都など西日本においても牛肉食の事例が多数見られる。
福沢諭吉は、一八五七年(安政四年)頃、大阪の難波橋南詰と新町の廓のそばにあった牛鍋(「うしなべ」とルビがふられている)を供する店を訪れているが、「何処から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった」(『福翁自伝』)とさんざんの感想を記している。
横浜では居留地外国人の増加にともなう肉食需要の高まりを受けて、一八六四年(元治元年)、海岸通りの一画に屠牛場が開設された。
こうしたなか、一八六二年(文久二年)頃に入船町にあった伊勢熊という居酒屋が牛鍋の提供をはじめた。北林余志子の戯曲「牛を喰ふ」(一九三四年)は、この伊勢熊を舞台に、旧派対御一新の対立を描いている。
横浜では現在、三軒の牛鍋屋が営業をつづけている。最古参は末吉町の太田なわのれんで、一八六八年(明治元年)に能登から横浜へやってきた高橋音吉が、猪鍋の調理法に想を得て、四角く切った牛肉をネギと一緒に鉄鍋にならべ、醤油と味噌のタレで煮込む独自の食べ方を考案した。一方、伊勢佐木町商店街にある二軒、一八九三年(明治二六年)創業のじゃのめやと一八九五年(明治二八年)創業の荒井屋では、醤油ベースのわりしたを鍋に入れて十分に温め、大ぶりに切った牛肉を一枚ずつ煮る。
「新しい食物だったので、それぞれの店が『どうすればより美味しく牛肉を食べられるのか』といろいろな食べ方を試し、それが現在、店の特徴としてのこっているということでしょうね。西洋人はステーキのように血のしたたっている状態の牛肉を好んで食べますが、日本人はもともと鶏にしても豚にしても火をしっかり通さないと抵抗がある。そういう志向が牛鍋の食べ方につながっていったのだろうと思います」(じゃのめや五代目店主・山崎謙吉さん)
かつてじゃのめやの常連だった詩人の佐藤惣之助が詞を書き、渡辺はま子が歌った「ヨコハマ懐古」には「町の盛り場 瓦斯燈が燃えて/夜は牛鍋 やれ源氏ぶし」という一節がある。惣之助は牛鍋の底に、開港の灯を見ていたのかもしれない。
<◆第3章 関外をあるく より>
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行きどまりのバー
〈波止場は、どこでも遠い。波止場にいく道は、たいてい、ニンゲンのにおいのしない、広い、一本道だが、これが、みんなうんざりするほど長い。
横浜・北波止場(ノース・ピア)の入口も、国電の東神奈川の駅からまっすぐ一本道できたところだけど、ぼくは、毎日、うんざりしながら、この道をあるいた〉(田中小実昌『北波止場の酔っ払い』)
ここで書かれている「横浜・北波止場(ノース・ピア)の入口」とは神奈川二丁目交差点付近、首都高速の真下に架かる村雨橋を指す。
一九七二年(昭和四七年)八月四日には、ベトナム戦争に反対する市民らが炎天下のなか、ここで座り込みを敢行し、米軍の戦車出動を阻止した。この村雨橋闘争は、同年に相模原の在日米陸軍相模総合補給廠西門前で起きた市民闘争とあわせて「戦車闘争」とよばれる。
村雨橋から星野橋へ到る道沿いには、かつて港湾労働者のための簡易宿泊所がならび、最近まで生活保護受給者向けの入居施設として利用されていたが、この本の取材をはじめたタイミングで跡形もなく取り壊された。
田中小実昌が「うんざりするほど長い」と書いた通りをあるいて瑞穂埠頭へ向かう。千鳥橋を過ぎ、高島線の線路をこえると、右手に三井倉庫が所有する古い倉庫群があらわれる。このあたりまでくると、道の先にある瑞穂橋が目視できる。橋の先はノースドックの敷地となり、米軍の統治下に置かれている。
戦車闘争以後もノースドックは着々と動きを見せていた。たとえば、一九九五年(平成七年)の沖縄少女暴行事件をきっかけとする在沖米軍基地返還の日米合意を受けて静岡の東富士演習場や山梨の北富士演習場、大分の日出生台演習場など本土五ヵ所に実弾演習場が移設されてからは、演習につかう榴弾砲がノースドック経由で持ち込まれている。
瑞穂橋の入口には、一般人の立入りを禁止する旨が記された看板が立っている。橋のたもとには、サザンオールスターズの「思い出のスター・ダスト」で歌われ、「あぶない刑事」など横浜でロケされた数々のドラマや映画にも登場するバー、スターダストとポールスターがある。
「一九五〇年代のはじめには、村雨橋をこえて右側に五、六軒の外人バーがならんでいました。うちは一九五四年(昭和二九年)から営業をはじめましたが、ベトナム戦争の終結と同時にパタッと客足が途絶え、当時五、六軒あったバーもつぎつぎとつぶれていったんです。もともとここは準工業地帯で、民家はひとつもないからね。うちも全然お客が来ない時期が何年もつづきましたが、七〇年代の後半に雑誌に書かれたものを読んだひとたちが、口づてにこの店の存在を広めていって、方々からお客が来るようになった。昔は若い人も多かったけれど、いまは中年過ぎのサラリーマンが多いかな。古いひとだと、親子二代で通っているひともいる。ここで知り合って結婚して、その子どもがまたここへ飲みに来たりね」(二代目マスター・林彰男さん)
開店当時からほとんど変わっていない店内には、横浜の移り変わりのなかで、出会い、別れ、生まれ、消えていったひとたちの足あとがしみついている。店に置かれた一九五〇年代製のジュークボックスもメンテナンスの甲斐あって、しっかり現役だ。コインを入れて、プラターズの「煙が目にしみる」を流してみる。
「造船所があった頃は、みなとみらいのほうなんて真っ暗でなにも見えなかった。いまはそこのコットンハーバーにしても、こうこうと明るくなっちゃって。店のなかは変わっていないけれど、外の風景はまるで変わったね」
全国各地から昔なじみの客が足をはこぶ一方で、コットンハーバー地区にくらす新住民との交流はほとんどないという。
二〇二一年三月、日米合同委員会での合意により、基地内の鉄道レール、およびゲート外の土地約一千四百平方メートルの返還が実現した。ノースドックの土地の一部返還は、瑞穂橋と港湾道路が返還された二〇〇九年(平成二一年)三月以来のことだったが、いずれにせよ基地は稼働をつづけている。
<◆第9章 神奈川をあるく より>
- 目次
◆第2章 野毛山・戸部をあるく
◆第3章 関外をあるく
◆第4章 関内をあるく
◆第5章 中華街・元町・山手をあるく
◆第6章 本牧・根岸・磯子をあるく
◆第7章 鎌倉街道・金沢をあるく
◆第8章 横浜駅・みなとみらいをあるく
◆第9章 神奈川をあるく
◆第10章 鶴見をあるく
◆第11章 港北をあるく
◆第12章 保土ケ谷・戸塚をあるく
◆巻末特別インタビュー 小野瀬雅生(クレイジーケンバンド)
- 著者プロフィール
1982年東京都生まれ。日本映画学校卒。出版社勤務を経てフリーランスの編集・文筆業に。編著に『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)、『心が疲れたときに観る映画「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)など。国立映画アーカイブ(NFAJ)客員研究員も務める
- 商品概要
定価:1,650円(本体1,500円+税)
体裁:四六判/288ページ(オール1C)
ISBN:978-4-7778-2774-9
発売日:2022年8月1日
発行:辰巳出版
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