砂丘地に移住就農が続々のワケ? 隣接の福井市にまたがる園芸産地、10年余で41人
北陸新幹線延伸でいま注目の福井県坂井市
北陸新幹線の延伸で注目される福井県。その福井県坂井市三国町と福井市にまたがる通称、三里浜と呼ばれる砂丘地に、ここ10年余りで、園芸農家として新規就農する移住者が大幅に増えている。今回はなぜ移住就農が増加しているのか調査を行った。
【調査概要】
調査期間 : 2011年7月~2024年7月までの13年間(来年度の就農予定者も含む)
調査機関(調査主体) : 三里浜砂丘地農業支援センター
調査対象 : 三里浜への移住就農者
有効回答数(サンプル数) : 41
調査方法(集計方法、算出方法) : 就農の申請
坂井市にある三里浜砂丘地農業支援センターがまとめた集計によると、その数は41人にも達し、県内からも含め全員がそれまで農業とまったく縁がなかった人たちだ。41人のうち他県からは23人に上り、出身地は、大阪府の11人がトップで関西、北陸、関東の7府県からの移住で、福井県出身者の18人を上回る。栽培作物はミディトマトやメロン、スイカ、ダイコン、ニンジン、コカブとの組み合わせでどの農家も経営は安定しており、特に坂井市では毎年2~5人がコンスタントに移住就農が決まっていく。なぜ、三里浜での就農はそんなにも魅力的なのか、新規就農の移住者から話を聞いてみた。
「先行き需要、ものづくり、将来性考えたら…農業」(鯉田さん)
「移住したかったけど、最初、農業は頭になかった」(安藤さん)
日本海に面した福井県内最大の工業団地・テクポート福井は、港湾を整備した約1247ヘクタールの広大な用地に、化学、医薬、金属加工、電子などの工場群が並ぶ。三里浜はその団地に沿うように福井、坂井の2市にまたがってほぼ南北に延びる砂丘地帯。もともと長さ12キロ、幅2、3キロの三里の浜地に、1960~70年代にテクノポート福井が整備され、その東を流れる九頭龍川沿いとの狭間の砂地約350ヘクタールが畑作地として残った。現在は、あちらこちらに園芸ハウスが建ち並び、ミディトマト、ダイコン、メロン、スイカ、コカブ、ブドウなどが年間を通じ元気に育っている。
「農業に興味があった、というより、それまで長い会社勤めだったから、自分流で好きに(事業を)やって見たかった。自分で思うように自由になりたかったのが、ここに来た動機」。こう話すのは坂井市の三里浜で園芸を始めて7年目という鯉田貴博さん(62)。30度超えのハウスの中、インドネシアからの研修生を引き連れ、6年前から作りだしたシャインマスカットの枝に結束テープを巻き付けながら汗を流していた。大阪生まれ、福井とはまったく縁がなく、50歳までは農業とも接点がなかった。
28年間のメーカー勤務、常務というポストを捨ててまで、この土地で農業を始める魅力とは何だろう。「人生の第2ステージ…独立ですよ。会社のいいなりじゃなく自分で経営するとしたら…」と考えた時、「先行き需要があるもの、つまり食、さらに、ものづくりであること、ポテンシャル(可能性)が高いもの、この3つを自分が進むべき方向だと定めた」。そうしたら「園芸農業の道に行き当たった」と言う。
一方、「農家になる、というより『移住したい』が先でした」と語るのが、幼い長男を連れ夫婦で就農した安藤悟さん(46)、陽子さん(38)夫妻。まだ園芸は2年目。三国町米納津で空き家を借り、ハウスでミディトマトのほかスイカ、メロンを栽培しながら日々手探りの農業経営だ。「大阪に住んでいる時、よく移住フェアに夫婦で顔を出していた。妻が都会より、もっと自然が近いところで暮らしたいと希望があったから…」。山登りという共通の趣味が縁結びとなった2人。システムエンジニアだった悟さんは、「どちらか言えば、妻主導の移住だった」と笑う。ある時、自宅近くで開かれていた新農業人フェアに顔を出し、その時、あるブースで、こうしたら農業で生計が成り立つと具体的数字を挙げて説明を受け、「これは農業での移住もありかも」と漠然と移住イコール農業という将来設計のイメージが膨らみ始めたという。
知らない土地だが、「広々した坂井平野に惹かれた」 (鯉田さん)
福井の勧誘は「ほかの地域よりは、自由があった」 (安藤さん)
それが、なぜ福井県坂井市だったのか。安藤夫妻は、白山登山しか縁がなかった福井。実は、県主催の園芸体感バスツアーには申し込みが間に合わず不参加だったのだが、県の人が「ぜひ現地を見てください」とわざわざ2人のためだけに丸1日のツアーを仕立ててくれた。そこで、のちに世話になる砂丘地農業支援センター事務局長の山田誠一さんと初めて出会い、「砂丘地をこまめに案内してくれた」と言う。もちろん福井県以外からも盛んに勧誘もされたが、「うちはこれが特産だから…」と無理やり特産栽培を強要されるかのような勧誘には「正直、閉口した」と悟さん。それに比べ福井の勧誘はもっと自由だった。
一方、鯉田さんも福井には土地勘がなかったため、ネットでいろいろ情報を調べ、岡山や和歌山などもっと大阪に近い土地での就農も一時は頭をよぎったが、「福井の園芸就農への補助も手厚い」という情報も気になっていた。なるべく自分のやりたいようにやれる農業を理想とし、園芸体感ツアーにも参加。何となく手ごたえを感じ始めたころ、1人で坂井市を訪問。東尋坊などの周辺の観光地も巡り、住みよい土地かどうか自分の目で確かめた。その際、印象深かったのが、「坂井平野の広々とした農地が広がる景色だった」と言う。
就農先が坂井市だったもう一つの理由が人だ。鯉田さんは「三里浜の人は、外から入ってくる者に慣れているのか、みんなウェルカムって感じ。園芸の栽培についても、先輩である里親さんだれもが親切に指導してくれる」。里親とは、新規就農希望者として移住してきた〝新人さん〟に、園芸栽培のさまざまな知識や経験を助言する、熟練農家、いわゆる先輩農家だ。里親農家は栽培経験が豊富で、砂地ならではの園芸のコツを知り尽くしているだけに、先行き不安を解消してくれる大きな存在だ。将来を見据えたとき、里親の減少が見えたので、新規就農した中から3名の里親を育てた。
安藤夫妻はこの地への移住を決めたのに、支援センターの山田事務局長の存在も大きいという。「新農業人フェアでもどこでも、勧誘の際は、なかなか確かなことはズバッと言ってくれない。でも、山田さんは農地や住むところを、『当たってみるよ』とか、結構はっきりした答えというか、返事がとても前向きだった」。それが「僕たちには新鮮だった」と言う。さらに、山田さんは長男を預かる保育園まで探してくれた。「ここに土地勘がないから、最初は不安だらけ。でも山田さんが農地や空き家、さらに里親といろいろ世話してくれるのに安心感があった」と言い、陽子さんは「(山田さんと)会ってなかったならここに来ていない」とまで言う。農業栽培や経営の視点だけでなく、移住して安心して生活できるかどうか、全般で親身になってくれた点を高く評価する。
もうひとつ、2つの農家が就農を決めた理由が、栽培地が砂地だったこと。たまたまではあるが、鯉田さん、安藤さんともスキューバダイビングが趣味だった。「砂地の方が、雨が降っても足元が取られない。それはふくい園芸カレッジの体験でよくわかった。」(安藤さん)と砂地のメリットも実感したことも、「移住の決め手」になったようだ。
安藤さんはまだ2年目だが、1年目に自分たちの育てたミディトマトやスイカがお金に代わった時、素直に「うれしかった」と笑う。近所の人にメロンを差し入れた時も「とても、おいしいよ」
と言われると、「ああ、もっとこれ以上に美味しいものを作らないと…」という生産に対する心構えが出来てきたという。まだまだ新人農家だが、早く安定収入を目指して「面積拡大も考えたい」と前を見据える。
一方、鯉田さんは園芸もある面ベテランの域に入り、栽培する作物の幅も広がった。今年から新規就農者の面倒を見る「里親」も任される。「僕の今の夢はね。僕がやってきた園芸をだれに継いでもらうか、後継者を育てることなんです」と話す。再来年、「園芸を習いたい」という知り合いの18歳の若者が三里浜に来ることが決まっており、現在は愛知農大で勉強中。その若い彼を「自分の園芸栽培の後継者として育てる」という。50歳を過ぎて農業での独立という、自分なりの起業を果たした鯉田さんにとって、65歳までに「後継者を育てる」は、人生設計の次の目標と言えそうで、今は砂丘地農業にどっぷりと浸かっているようだ。
三里浜砂丘地(坂井市)での新規就農のステップ(道程)
❶東京・大阪など大都市で開かれる就農イベント(新農業人フェア、マイナビ農林水産FESTなど)に参加してみる。
❷興味のわいた自治体(例えば福井県、坂井市など)に就農制度の支援を問い合わせみる。
他県の制度や受け入れ態勢と比較してみる。
❸福井県主催のバスツアー(年3~4回)に参加してみる
❹ふくい園芸カレッジ(あわら市井江葭50−8)での研修に臨む
※基本2年間、座学と栽培を学ぶ
※自分の進む方向(就農・就業する場所)を決める
↓
就農地(栽培地)を三里浜砂丘地に決定 ↔ 【チーム会との面談】
↓
1年目に立てた就農計画に基づき、里親研修を1年間受ける
↓ 【この間に随時、チーム会との面談など】
作りたい作物・就農計画の見直し ↔ 【チーム会との面談】
農業支援センターが農地を仲介 → 【栽培ハウスを建設】
❺就農スタート(主に1月から) 【チーム会の月1回巡回 3年間】
「農業で独立」という起業、その夢のお手伝い
三里浜砂丘地農業支援センター 山田誠一事務局長に聞く
「三里浜で農業を始めたい」という人はどのような手順で、就農への道筋をたどるのだろうか。福井県、坂井市(のちに福井市も参加)、JAなど関係機関が2013年度に立ち上げ、砂丘地での農家の高齢化や増える遊休農地に対策にここ10年余り取り組んできた三里浜砂丘地農業支援センター(坂井市)の山田誠一事務局長にインタビューを実施した。
― もし、坂井市三里浜で就農したいと考える人がいたら、「新規就農のステップ」(上述)のような過程を踏めば、よいのですね。
山田 はい、これまでの就農者全員が当てはまるわけではないですが、まあ大体の流れはそうです。
― 農業経験がある人もない人も、ふくい園芸カレッジの2年間で、就農か就業かを選ぶことが、ひとつの岐路になる感じですか。
山田 そうです。福井県のふくい園芸カレッジは、新規就農者だけでなく、もともと農家の後継者だった人が、改めて農業を学ぶという人たちも対象。ですから、入校者は園芸に全く素人なのか、多少知識や経験はどうなのかなど千差万別なので、一から園芸を学ぶ大事な入口です。座学や現地栽培で〝園芸のいろは〟を学ぶうちに、自分の方向性、つまり栽培地をどこにするか、チャレンジする作物は何にするのかを考えることができます。
― カレッジ期間中の2年間は無収入です。それで就農をあきらめた人もいるのですか?
山田 いないわけではありません。自分が農業に向いてないと判断したら、別な道を選ぶこともできる。ただ、これまででカレッジを卒業し就農した人の中で離農した人は坂井市の三里浜には1人もおりません。
―「就農するなら三里浜で」と決めるのもこの研修中ですか?
山田 そうです。ただ自分が何を栽培して生計を立てていくのか、とても大事です。三里浜には、私を含めJA、市、県、三里浜特産農協などでつくる「チーム会」という組織があり、これらの面々と相談しながら、就農計画を立てます。最も収入が上がるミディトマト栽培をメインとして、メロンやスイカなど果物類を組み合わせるとか、コカブやニンジンなど組み合わせるとか、専門家らの助言を受けながら、自分の就農への道筋が決まっていきます。就農した後は、普通なら、たとえば安定した収入が得られるミディトマトを軸に栽培を始めたら、5年後には最低250万円の収入を上げられるようなプランを立てます。ミディトマトはハウス栽培で最も安定した収入が上がる作物で、ハウス1棟でうまく栽培すれば100万円ぐらいの売り上げがあるはずです。
― 栽培場所をどこにするか、三里浜の用地も仲介してもらえるのですか。
山田 はい、それも農業支援センターの仕事です。三里浜(三国町浜四郷地区)の地主さんと私らが交渉し、栽培用地を斡旋します。地主とは厚い信頼関係ができていますから。
― 場所が決まったら、実際に里親さんに栽培を習うわけですね。
山田 里親は三里浜砂丘地で実際にさまざまな作物を作った経験のある大先輩。その人たちと一緒に栽培し、耕起、定植、水やり、整枝、収穫など一連の栽培を体験してみます。里親との研修を経験すると、みんなの先行き不安はかなり解消されるみたいです。新規就農が増えているのは、この里親制度がうまく機能しているからだと思います。私は里親ではありませんが、里親と就農者の間に入って、困りごとはないか、悩みはないかなど両者とのコミュニケ-ションを常に密にしています。
― なぜ三里浜砂丘地にコンスタントに移住の就農者が入ってくるのでしょうか?
山田 国からの補助金、さらに県・市の補助金を上乗せしてもらい、JAのリース事業を活用し安価にハウスが手に入る(普通、新規就農ではハウス5棟から始める)手厚い制度があることもメリットとしてあるでしょう。ただ、それだけでなく、今どきの若い世代の間に、「自分で生産性が上がる仕事がしたい」という風潮があるのではないでしょうか、それが園芸や農、しいては食に関係する世界に結びついている感じです。それと、農業支援センターが10年余りの実績を積んできたこと、この三里浜の人々や関係組織が、「この地では稲作よりも、園芸作物に伸びしろがある」と見た先人たちの努力が今につながっていると思います。
農業で生計を立てると決断したからには、自分なりにあれもやろう、こうもしてみたい、とそれぞれに夢があるでしょう。それを実現するために、お手伝いする、それがこのセンターの役割だと思っています。
【参考情報】
坂井市には、他にも福井県が誇る観光地や食が多数あります。その一部を下記にてご紹介いたします。
<自然>
越前加賀海岸国定公園に含まれる越前松島などの美しい海岸線、九頭竜川や竹田川、市東部の森林地域、福井県一の米どころを支える広大な田園など、豊かで美しい「海・山・川」の自然に恵まれています。
東尋坊
断崖に日本海の荒波が打ち寄せる景色で知られる国の天然記念物・名勝東尋坊。約1キロメートルにわたり豪快な岩壁が広がっています。このような輝石安山岩の柱状節理が広範囲にあるのは、世界に3ヵ所ともいわれ、地質学的にも大変貴重な場所です。初夏のまばゆいばかりに広がる青い空と日本海、秋の頃の日本海に太陽が沈み行く夕景、雪が舞う頃の荒々しい波と吹きつける寒風。どれも東尋坊と日本海の大自然が見せてくれる、四季折々の素晴らしい風景です。
越前松島
東尋坊と同じ柱状節理の岩が織り成す景観の中、一風変わった岩が点在するほか、散策路を辿ると小島に渡ることができたり洞穴を覗くこともできます。越前松島水族館や宿泊施設が隣接し、家族連れや遠足でにぎわう観光地となっています。
<観光地>
日本屈指の景勝地である東尋坊、三国サンセットビーチを中心とする海岸、北前船交易で栄えた三国湊、現存12天守の丸岡城をはじめとする歴史資源があります。
三国湊
三國湊は、福井県一の大河「九頭竜川」の河口に位置します。千年以上昔の文献にも「三国」という地名の記述があるほど昔から栄え、歴史がある町です。北前船が残していった歴史・文化はもちろんのこと、格子戸が連なる町家、豪商の面影が残る歴史的建造物など、情緒ある町並みが残ります。
丸岡城
丸岡城は別名霞ヶ城とも呼ばれ、平野の独立丘陵を利用してつくられた平山城です。春の満開の桜の中に浮かぶ姿は幻想的で、ひときわ美しいものとなっています。戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆の備えとして、織田信長の命を受けて柴田勝家の甥・勝豊が築きました。標高27mの独立丘陵を本丸として天守を築き、その周囲に二の丸と内堀、その外側に三の丸と外堀を巡らせていました。丸岡城天守は、江戸時代以前に建てられ当時の姿で現在まで残っている現存12天守の1つです。昭和23年の福井地震により石垣もろとも完全に倒壊しましたが、天守の材料や石垣などの主要部材の多くを再利用して昭和30年に修復修理されました。現存12天守の中で、完全に倒壊した状況から修復された天守は唯一丸岡城天守のみです。現在立ち続けている古式の風格のある姿は、消滅の危機という困難な道のりを経ても立ち上がり復興してきた証であり、その歴史は他にはない波乱の運命を歩んだものです。
雄島
その自然は未だかつて人の手が加えられていない神の島。伝説のある島全体は自然豊かな散策路としても親しまれています。島の奥には大湊神社がたたずみ、毎年4月20日は地区住民による大湊神社の例祭が行われます。
<食>
福井県における冬の味覚の代表である「越前がに」をはじめとする水産物、そば、らっきょうなどの農産物、山菜、油揚げ、若狭牛など、食を活かした観光が魅力です。
越前がに
毎年皇室へ献上される事でも有名な三国町の「越前がに」は、身は殻の中によく詰まっていて、甘く繊維が締まっており、数に限りがあるため、特に珍重されています。
甘えび
甘えびは、越前がにと並んで人気の高い日本海の珍味。三国漁港にも透き通るような紅色をした、たくさんの新鮮な甘えびが並んでいます。
丸岡産おろしそば
坂井市は県内1・2を誇るそばの産地で、特に丸岡産のそば粉で作ったおろしそばは香り高く、風味が強い飽きない仕上がりとなっています。
<文化・伝統>
ファッションなどのブランドネームや品質表示などの織ネーム、国内第1位のシェアを占めるマジックテープなど伝統的な技術産業が盛んです。
越前織:ネームタグ
丸岡は織物の一大産地で、ワッペンやスポーツ用ネームとして用いられる「織ネーム」は需要が高まっており、また、コンピュータで図柄処理し織物として描画する「越前織」も観光の土産等向けに作っています。主要製品は洋服に施すネームタグで、国内シェア7割を誇ります。
一筆啓上 日本一短い手紙の館
丸岡町ゆかりの徳川家康の忠臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てた短い手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」(「お仙」とは後の越前丸岡城主 本多成重(幼名 仙千代))の碑が丸岡城にあります。この碑をヒントに日本で一番短い手紙文を再現し、手紙文化の復権を目指そうということで、平成5年から毎年テーマを定めて「一筆啓上賞」として作品を募集し、平成15年から「新一筆啓上賞」として、日本全国、海外から応募が寄せられています。
このプレスリリースには、メディア関係者向けの情報があります
メディアユーザー登録を行うと、企業担当者の連絡先や、イベント・記者会見の情報など様々な特記情報を閲覧できます。※内容はプレスリリースにより異なります。
すべての画像