ゲストを招いたトークイベントを多数開催 馬場智行写真展『孤独の左目』@横浜市民ギャラリーあざみ野
トークイベントの様子は後日クリエイティブ情報サイト『PicoN!』にて動画配信
トークイベント:
ギャラリートーク「写真+助詞」
写真+助詞、それは例えば"写真に"や"写真への"のように構成されます。その文言はシンプルな様相を呈すると同時に、根源的な部分に言及しようとする指向性が感じられます。
助詞は語り手によって選択され、文言は持つべき焦点を分岐します。
このトークでは、お二人の語り手をゲストに迎え、展示作品をベースにいずれかのポイントを経由して、写真の根源的な意味へアプローチを試みます。
ギャラリートーク「写真+助詞」Ⅰ 馬場智行×調文明(写真史研究・批評家) 6月24日(土)15:30~
1回目はゲストに写真史研究・批評家の調文明さんをお迎えします。雑誌やウェブ等で写真批評や写真論を寄稿している調さんは、文章の中で現代の写真をめぐる状況の中で立ち上がるべき批評があると語っています。展示作品の読み解きを基に、写真自体の本質へアクセスを試みます。
調文明 プロフィール
1980年、東京生まれ。写真史研究/写真批評。NPI講師。『アサヒカメラ』『日本カメラ』『写真画報』『PHaT PHOTO』『STUDIO VOICE』などで執筆。論文に「A・L・コバーンの写真における都市表現――三つのニューヨーク・シリーズを中心に――」(『美学芸術学研究』東京大学美学芸術学研究室、2013年)、「御真影と『うつし』」(展覧会カタログ『かげうつし――写映・遷移・伝染――』京都市立芸術大学@KCUA、2013年)、「ジェフ・ウォール――閾を駆るピクトグラファー」(『写真空間4』、青弓社、2010年)など。
ギャラリートーク「写真+助詞」Ⅱ 馬場智行×鳥原学(写真評論家) 7月1日(土)15:30~
2回目は写真評論家の鳥原学さんをゲストにお迎えします。鳥原さんはこれまで多くの写真に関わる著書を出版されてきた語り手として以外にも、ビエンナーレのキュレーターやギャラリスト、写真現像所の店頭でプリント注文の対応など、様々な立場で写真を見てこられました。ギャラリートークⅡでは、展示作品のテーマである視覚に関連する「写真を見ること」について鳥原さんとのディスカッションを経て、写真と我々との関係について探ってまいります。
鳥原学 プロフィール
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
トークイベント:
アーティストコレクティヴglitch トーク‒‒‒‒‒case2 馬場智行〈孤独の左目〉 6月22日(木〉10:00~
先日、glitchが主催する KAI ART BOOK FAIR 内で行われた、コレクティヴのメンバーであるフジモリメグミの「aroundscape」を対象にしたトークに引き続き、同じくメンバーである馬場智行の本展を対象にトークを行います。尚今回のゲストは写真家の千賀健史さんをお迎えします。
glitchの詳細につきましては、以下の記事をご参照ください。
https://picon.fun/photo/20230505/
https://note.com/glitch_f_d_b/n/n743ed5153934
https://note.com/glitch_f_d_b/n/n9835187251b9
※トークイベントはいずれも参加費無料です。
左目の「恍惚と不安」 鳥原学
馬場智行の「孤独の左目」は既視感を掻き立てる作品である。
彼の撮る被写体は、例えば街の風景、人物のスナップ、外食チェーンのマスコット、テレビのニュース画像、有名人のポートレイトなどでほぼ見慣れたものだ。ただし画像ソフトで加工してそのデティールを消し、輪郭をおぼろにし、像をタブらせている。画像が不鮮明な一方で撮影対象の素性は分別できるため、いつかどこかで見たという既視感を喚起させる。つまり、馬場は視覚記憶のアナロジーとして作用させようとしている。
その点で言えば、杉本博司の「建築」と似ていなくもない。20世紀を代表する名建築を、焦点を無限遠の倍に設定して撮影されたシリーズである。大ぼけの像に抽象化され、印画紙に定着された建築のシルエットは、それが建てられる以前の建築家の頭にある理想像を表しているという。
不鮮明化による抽象化は、写真が撮れない不可視な内面、あるいはものの本質に迫れるという作家の確信と、凡庸な認識を拒否する態度に根差すものでもある。ヴォルフガング・ウルリヒの『不鮮明の歴史』、眼鏡による近視の矯正をする画家は多いという例を引き、このように指摘している。
「鈍い視力がものを均質化し-それぞれが独自な現前性を均(なら)し-。より大きな関係を認識褪せるということは、彼らの眼には長所と映った。すべてを統一的表現原理のもとに置き、自分の〈独自な〉視線とそのオリジナリティを証明したい画家の要求にこれほど適うことはないのである」オリジナリティは表現者の特権であり、また凡庸な社会から自らが疎外されているという自覚から見いだされるものだ。馬場の左目は「円錐角膜」という特殊な形状を持ち、それゆえに人とは違って、不鮮明なものの見え方をするという。このことが、その特権と疎外
とを深く意識する契機になったことは間違いない。つまり「撰ばれてあることの恍惚と不安」を彼は常に感じている。
ただし記憶とは不鮮明なものだが、その不鮮明さは“写真的な不鮮明さ”とは違ったものであるはずだ。つまり写真的な不鮮明さが記憶の不鮮明さにある形式を与え、それが観衆化され、人の思考や心理的傾向に根付き、定着していったという方が正確なのだろう。わたしたちはアップグレードされていく、映像テクノロジーを内面化した眼差しで、この世界を見ているのだ。「孤独の左目」が問題にしているのは、おそらくその点なのである。
現代人の使う全感覚のなかで、視覚の占める割合は圧倒的に多く、他の感覚を支配している。その傾向はますます強まるだろう。「左目の孤独」はそのことを見る人たちに強く意識させるはずである。素朴に、ありのままにものを見ることは、もうできないということを。
では、馬場の抱える「恍惚と不安」が、どのような展開をたどるのだろうか。その果てしない旅が、ようやくこの展示から始まろうとしている。
『孤独の左目』展示概要
ヴィレム・フルッサーによると、テクストは伝統的な画像を抽象するために生まれたという。そのテクストは線形の歴史ともなれば、様々なコンテクストともなり、広く共有されることで、概念を生んだのだという。そして、テクノ画像はテクストによって生まれた概念を抽象する為に生まれたのだという。概念の抽象は我々にとって何を意味するのか。
本作は、テクノ画像の抽象性を概念の感覚的な感受を促すものであるとし、テクノ画像である写真を介するビジュアルコミュニケーションは、画像が抽象した概念に対する撮り手と鑑賞者の両者固有の感覚的解釈の交換と捉えています。
人が身体に視覚を備える本来的な意味の在処をこのコミュニケーションの中に求め、我々の生物としての生命活動と関連させ捉えることで、”視覚とは?”に対する一定の答えを製作と発表の中から得ています。
本作は四つの章から構成されており、これに合わせて本展は各章ごとに分けられた四つの部屋が設けられ、各部屋を通過することで起こる、鑑賞者の鑑賞の体験上に自身が得た”視覚とは?”を浮かび上がらせようと試みています。
また本作は、現代がデジタルを無機的なものとする時代から、身体的に或いは感覚的に扱う時代へと移行したと感じていることを着想の一つとしています。
この移行をより疑いのない実感とするため、複雑な手続きを踏み、多数の変換や生成変化をプロセスに組み込む難解な機構で表し証明しようとするのではなく、簡易で単純な方法でこれを表します。
デジタルを身体的に扱うことを示すことで、”視覚とは?”を現そうとすると同時に我々の視覚の今後を問いかけます。
尚、本作の章立ては以下の通りとなります。
第1章 孤独の左目
プライベートな意識を保ちながら撮られた写真
第2章 認識上のドラゴン
パブリックな空間に身を置いていることを意識しながら撮られた写真
第3章 invisible in visible
プライベートな空間にある概念装置であるテレビから流された歴史的な映像を撮った写真
第4章 ギロチン
知識の中にだけに存在し、現実に確認したことのない物で、何らかの媒体を通じて見たこ
とのある物を撮った写真
タイトル:「孤独の左目」
会期 :2023年6月21日(火)~7月2日(日)
会場 :横浜市民ギャラリーあざみ野(神奈川県)
時間 :10:00~19:00
休廊日 :月曜日
入場無料
「ひらめき」が生まれるクリエイティブ情報サイト『PicoN!』:https://picon.fun/
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