丸岡城の魅力発信 あなたに任せた!
【福井県坂井市】"お城博士ちゃん”こと栗原響大さんをPR大使に
現存十二天守のひとつ、丸岡城がある福井県坂井市は11月28日、テレビなどで活躍し“お城博士ちゃん”として知られる、栗原響大さん(神奈川県横浜市在住)に「丸岡城PR大使」を委嘱した。丸岡城PR大使としては、お笑いタレントの田村淳さんに続いて2人目。丸岡城天守を見上げる同市の丸岡城観光情報センター「マチヨリ」で、池田禎孝市長から委嘱状を受け取った栗原さんは「丸岡城は天守倒壊などいくどもの困難を乗り越えてきたお城。このような大役に任命していただき光栄。北陸新幹線も福井まで開通し、アクセスしやくなったので、知名度を今以上に挙げていきたい」と今後のPR活動に意欲を見せた。
また、委嘱式に先立ち、市内の平章小学校で行われた「第7回丸岡城サミット」(主催:丸岡城サミット実行委員会、共催:坂井市教育委員会丸岡城国宝化推進室)にもゲスト出演。丸岡城の魅力を地元の児童や生徒ら約170人とともに〝共有〟し、「天守のある丸岡のまちは素敵。みんなで丸岡城を盛り上げよう」と会場で呼びかけていた。

「丸岡城は、幾度の困難を乗り越えた現存天守」

栗原さんは現在、高校1年生。幼いころから、歴史好きで、小学校1年の時、家族旅行で訪れた姫路城に魅了された。その後、城巡りをライフワークに国内430以上の山城を含めた城を訪ね、小学生時代からテレビやイベントに多数出演、お城博士ちゃんとしても知られるようになった。昨年は丸岡城で開催された「出張!お城EXPO」にもゲスト出演し、タレントの高橋英樹さんとトークも繰り広げた。

委嘱式では池田市長から委嘱状をはじめ、PR大使の専用パーカー、夏用のポロシャツ、それに名刺が本人に手渡された。池田市長は「栗原さんは小さいころから、全国のお城に詳しく、知識も豊富。この丸岡城は新たに観光情報センターも出来上がり、観光客へのPRが大事。盛り上げ役として、末永くPRをお願いしたい」と活動に期待を込めた。
これに対し、青いパーカー姿の栗原さんは「僕に、もったいないような大役。さらにお城に詳しい田村淳さんに続いて2人目で喜ぶ一方、緊張もしている。先ほどは、丸岡城サミットにも参加させていただき、この丸岡城を誇りに思い、後世に残そうとしている熱い思いをみなさんから感じた。そのお助けを僕ができることを大変うれしく思う」と素直に語った。早速、もらったばかりの白地の丸岡城PR大使専用パーカーに袖を通すと、サイズぴったりで、お天守を背後に記念撮影に収まっていた。初仕事は12月20日・21日に横浜市で開かれる「お城EXPO2025」となり、丸岡城ブースでPR活動に加わる予定。
丸岡城サミットに出演「丸岡城は、北陸を代表する城」
坂井市丸岡町の地元の児童、生徒らが多数参加し、丸岡城に関する学習成果を発表する「第7回丸岡城サミット~お城博士ちゃんと学ぶ丸岡城~」が同日、平章小学校体育館で開かれ、栗原さんもゲスト出演した。

今年は、高椋、長畝、平章の3小学校と丸岡中学校の計4校が学習や研究発表。高椋小学校3年生は、徳川時代の廃城令や昭和の福井地震による天守倒壊など幾度のピンチを乗り越えた歴史をたどりながら「奇跡のバトンを私たちもつないでいこう」と宣言。長畝小学校3年生はスタンプラリーやPR用シールの作成など日ごろの活動を報告。平章小5年生は、約400年前にタイムスリップし、城下の人々のインタビューする寸劇を披露した。また丸岡中学2年生は、滋賀県の彦根城や城下町を学習旅行で訪れたことを報告し、彦根城に比べ、今後、丸岡城で城の魅力づくりとしてやっていく課題などを提案していた。
この後、栗原さんによる歴史講座がクイズ形式で進められ、城の歴史が弥生時代の「村を守るために濠で囲った環濠(かんごう)集落」から始まること、その後、蝦夷(えみし)に対抗する城柵が造られるなど、次第に武士の時代に移るとともに、姿が様変わりしていき、戦国時代や江戸時代に私たちがイメージする城の形が出来上がったと流れを解説。「日本にお城はいくつあったと思いますか?」と会場にクイズを出し、「3万」と正解を発表すると、児童らから「えー」と驚きの声が上がっていた。
また、黒澤陽樹くん(平章小学校5年)をはじめ各校代表4人とのトーク会では 自分の好きな城を挙げたりして、お城談義に花が咲いた。最後は、“丸岡中学校のお城博士ちゃん”こと青木睦和君(2年)とお城の“知識合戦”を展開。青木君の「丸岡城の屋根瓦は何でできている?」との問いかけには「笏台石」と速攻で答え、会場を沸かせていた。また栗原さんは全国に城跡に含め3万あるが、天守が築かれたのは約200で、そのうち現存しているのはたったの12しかない。そのひとつが丸岡城。丸岡城は福井だけでなく、北陸を代表するお城だから、みなさんも誇りに思ってください」と熱く語りかけていた。
丸岡城とは
別名、霞ヶ城とも呼ばれ、平野の独立丘陵を利用してつくられた平山城。戦国時代の天正4年(1576年)、織田信長の家臣である柴田勝家の甥・勝豊の築城と伝えられる。標高27mの独立丘陵を本丸として天守を築き、江戸時代にはその周囲に二の丸と内堀、その外側に三の丸と外堀を巡らせていた。

丸岡城天守は、江戸時代以前に建てられたものの、その後、修築などを経て江戸時代から現在まで当時の姿を残し、現存12天守の1つに数えられる。戦後の昭和23(1948)年の福井地震により石垣もろとも完全に倒壊したが、天守の材料や石垣などの主要部材の多くを再利用し、昭和30(1955)年、修復修理された。現存12天守の中で、完全に倒壊した状況から修復された天守は唯一丸岡城天守のみ。
現在、立ち続けている古式の風格のある姿は、消滅の危機という、困難な道のりを経ても立ち上がり、復興してきた証しであり、その歴史は他にない波乱の運命を歩み、奇跡の修復城と言える。
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