ヴァレンティノ 2026年春夏コレクション 'スペキュラ ムンディ(Specula Mundi) 'を発表
メゾン ヴァレンティノ(Maison Valentino)は2026年1月28日(水)、フランス パリのテニス クラブ ド パリ(Tennis Club de Paris)にて、クリエイティブ ディレクター アレッサンドロ・ミケーレによる2026年オートクチュールコレクション 'スペキュラ ムンディ(Specula Mundi) ' を発表しました。

カイザーパノラマの大きな魅力のひとつは、どんな画像からも鑑賞を始められることにありました。座席の前にある装置が円を描くように動くため、それぞれの風景がすべてのひとびとの前を通過し、二重窓を通してぼんやりとした遠景を眺めることができました。(中略) 1822年、ダゲールはパリにパノラマ館をオープンしました。以来、遠景と過去を映し出す水槽ともいえるこの透明な輝く箱型のオブジェは、多くのストリートや大通りに欠かせない存在となったのです。
ヴァルター・ベンヤミン


19世紀末、ヨーロッパの主要都市にある装置が登場しました。それが、カイザーパノラマです。今日ではほとんど忘れ去られてしまっているこの装置は、視覚の歴史を理解する鍵となる存在であり、それは、小さな接眼孔がいくつも開けられた木製の円柱構造の集合光学機械でした。ひとびとは装置のまわりに集まり、のぞき穴を通して内部に映し出される立体的なイメージを観察しました。ひとびとは、個別に鑑賞すると同時に同じイメージを見ているのです。これは、視線の分離することを基盤とした公共の儀式だったのです。
この装置は、遠く離れた都市や異国の風景、記念碑、遺跡、そして到底行くことのできない場所の日常風景にアクセスすることを可能にしました。ひとつの部屋の中に、まるごと世界が入り込んだのです。それは、動かずして旅をする手段ともなりました。カイザーパノラマは、単にイメージを映し出すだけでなく、視覚のメカニズムそのものを舞台化しました。ヴァルター・ベンヤミンが回想するように、このはかない幻影が現れては消える小さな劇場では、制御されていながらも寛大な、催眠的な視覚のあり方が実践され、凝視や距離、停止といった、より古風な要素を保ちながら映画への道を切り拓きました。イメージは観る者を圧倒するのではなく、むしろ情報をもたらします。静止し、視線を集中させ、そして注意して観る姿勢を身につけることを教えてくれるのです。


この視覚の教育は、映画の普及とその後に続くデジタル画像の急増によって、次第に影を潜めていきました。しかし、社会の主流から取り残されたものの、完全に消滅したわけではありませんでした。それは停止したまま、再解釈、転換、屈折といった形でふたたび立ち現れる可能性を保ち続けています。まさにこの生存圏において、カイザーパノラマの装置は今日、懐古趣味としてではなく、現代における視線を問い直すための批評的なツールとしてオートクチュール ショーの知覚モデルとしてふたたび日の光を浴びるのです。


現代は視線とメディアへの過剰露出、そして急速な消費行動の同時性に支配されています。だからこそオートクチュールは、ゆったりとした時間や近さ、集中といった異なる時間の感覚によって区切られたビジョンを示したいのです。それぞれの衣服は、その着想と制作方法、そして視線に触れるまでの状況において、唯一無二の出会いを讃えます。カイザーパノラマは、この要求を空間的な形に変換し、概念的なねじれを生み出し、可視性を増幅するのではなく制限します。
視線は特定の位置に固定され、意図的で、状況に結び付いたものとなり、自らの偏りを自覚するようになります。つまりそれは、過剰に循環する誰もが写真に撮りやすいイメージの奔流とは対照的に、孤独で注意深く、ほとんど秘密めいた観察が対置されるのです。
着飾ることと見られることが交差する曖昧な領域で、視線は親密で、ほとんど近づきがたい空間へと入り込みます。そこはディストピア的、機械的、断続的な空間で、のぞき見るような緊張が高まり、期待が渦巻きます。ここでは、他者とともに見るのではなく、現代のピープショーさながら、それぞれが自分の死角からこっそりと他者をのぞき見るのです。


‘スペキュラ ムンディ’ ショーにおいて、カイザーパノラマは、現代の祭壇のような形で登場します。それは象徴的な集中を生み出し、儀式性を確立し、視線の方向を定め、アクセスを制限します。現れるものは日常的な用途から切り離され、隔離され、強調され、熟考する価値のあるものになります。
本来、カイザーパノラマで次のイメージへの切り替えを知らせる役割を担っていた伝統的なベルの音は、ここではテクノミュージックへと変容し、出現のテンポを刻む典礼的なビートとなります。
神聖さに包まれた啓示のように衣服が登場することは偶然ではありません。それらはハリウッド的なイメージを考古学的に掘り起こす過程で生まれた、古代的でありながらも現代的な存在なのです。
こうした装置において、映画はイメージを生み出す技術としてではなく、神話の宝庫、崇拝の対象となるアイコンや、昇華された肉体、幻影を生み出す工房として想起されます。歴史の形成において、絶え間なく演じ続ける姿やジェスチャーの生きたアーカイブ。ハリウッドでは、神々はきわめて特徴的な姿勢やまなざし、シルエットを備え、距離や光、過剰さの中に宿っていました。彼らは日常から引き離され、世俗的な崇拝の形に委ねられた存在でした。’スペキュラ ムンディ’ に登場する衣服は、こうした神話的連続性の中に連なっています。オマージュやリファレンスとしてではなく、新たな生まれ変わりとして存在するのです。オートクチュールは今、神話がふたたび肉体や物質、布地へと変容する祭壇となるのです。


カイザーパノラマは、この伝達を可能にする装置へと変貌を遂げます。それは、衣服をイメージの強制的な循環から切り離し、儀式的な時間の中に位置づける出現の典礼です。このように隔てられた空間において、衣服はもはや急速な消費の対象ではなく、ヒエロファニー(神の顕現)として立ち現れます。それは、立ち止まり、耳を傾け、特別な心構えを必要とする神聖な存在です。ゆえにカイザーパノラマは、単なる歴史的引用でも、舞台美術の技巧でもありません。ファッションと視覚、欲望と距離、日常とそれを超越するものとの関係を問いかける理論的なジェスチャーを体現しています。ここでは、視線はもはや場面を支配するのではなく、視線そのものが問い直されているのです。
この点で、’スペキュラ ムンディ’ は、現実をありのままに映し出す鏡になろうとするのではなく、現実を可能にしている条件を問う鏡です。それは、イメージを増殖させるのではなく、その流れをいったん停止することで、イメージの存在条件を明らかにしているのです。このような考察を通して、ファッションはその儀式的かつ批評的な側面を再発見します。それは単に歩くための表面ではなく、立ち止まり、世界を熟考することを学ぶ境界なのです。
アレッサンドロ
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