【国立科学博物館】青森県聖寿寺館跡ではじめて確認された貴金属製品の生産について ~東日本初の把手付き真鍮坩堝や金・銀・銅坩堝の確認~
青森県三戸郡南部町教育委員会と独立行政法人国立科学博物館(館長:篠田謙一)は共同で、青森県南部町の北東北最大の戦国大名、三戸南部氏の中心的城館であります国史跡聖寿寺館跡の発掘調査において過去に城館で出土した坩堝や非鉄金属製品の分析を行いました。
分析の結果、東日本(北海道・東北・関東・甲信越)で初となる把手(とって)付きの真鍮坩堝(しんちゅうるつぼ)が確認され、併せて金・銀・銅製品製作のための坩堝も複数確認されました。金・銀・銅・真鍮などの複数の貴金属生産の痕跡が単独の城館で見つかるのは東日本では極めて珍しい事例です。
このことから、三戸南部氏の中心居館で様々な種類の貴金属製品が生産されていたことが明らかとなり、工人集団(専門技術者集団)の中央からの招聘の可能性など、東日本における金属生産・加工の歴史を考える上で重要な発見となりました。
分析の結果、東日本(北海道・東北・関東・甲信越)で初となる把手(とって)付きの真鍮坩堝(しんちゅうるつぼ)が確認され、併せて金・銀・銅製品製作のための坩堝も複数確認されました。金・銀・銅・真鍮などの複数の貴金属生産の痕跡が単独の城館で見つかるのは東日本では極めて珍しい事例です。
このことから、三戸南部氏の中心居館で様々な種類の貴金属製品が生産されていたことが明らかとなり、工人集団(専門技術者集団)の中央からの招聘の可能性など、東日本における金属生産・加工の歴史を考える上で重要な発見となりました。
1 東日本初の把手付き真鍮坩堝について
(1)弊館理工学研究部の沓名貴彦研究主幹による理化学分析から、室町・戦国期の三戸南部氏の居館であった聖寿寺館跡で、把手付きの真鍮坩堝がはじめて確認された。把手付きの真鍮坩堝の確認は東日本(北海道・東北・関東・甲信越)では初。
(2)沓名研究主幹は令和2年3月に現地調査を行った後、令和2年7月から約1年間をかけて、顕微鏡観察や蛍光エックス線分析により元素の特定を行った。
(3)この坩堝は平成30年度の発掘調査で出土していたが、坩堝内部に付着した成分を分析して元素を特定した結果、真鍮製品を生産するための坩堝であることが判明した。
(4)把手付き真鍮坩堝が出土した竪穴建物跡(SI-167)は出土遺物の年代(15世紀中頃の青磁端反碗(D2類)、15世紀後葉の青磁碗(B4類)、1495年~1536年頃に流通した瀬戸美濃端反皿(大窯1期)、釘、馬具、碁石等)と遺構の重複関係から16世紀初頭以降~16世紀中頃の建物跡であると考えられ、把手付き真鍮坩堝も同時期のものと考えられる。
※竪穴建物跡(SI-167)は15世紀末~16世紀初頭に営まれたと考えられる二階建ての特殊建物と考えられる建物Fを構成する柱穴を壊して作られていた。
(5)把手付き真鍮坩堝の出土地点は平成28年度に確認された東北最大規模の掘立柱建物跡(建物B)の北約17mで、平成29~30年度に確認された二階建てと考えられる特殊建物(建物F)の真下、平成30年度に出土した安産祈願のお守りと考えられる北東北初の犬形土製品出土地点の北北東約4mの位置にあたる。
(6)真鍮坩堝は口径3.2㎝、底径4.4㎝、高さ4.6㎝で、横に把手が付き、約半分が欠損している。
(7)真鍮は銅と亜鉛の合金で色彩が黄金色に輝くことから、日本の中世社会において貴金属のように取り扱われ、金の代わりに用いられた。聖寿寺館跡で出土した真鍮坩堝の製作地は不明。
(8)把手付き真鍮坩堝の出土例は全国的に少なく、出土分布は西日本に偏っており、16世紀初頭の美濃国守護土岐氏の守護所(城下町)であった鷺山仙道遺跡(岐阜県岐阜市)、織田信長の居城でもあった16世紀代の清須城下町遺跡(愛知県清須市)、17世紀初頭の京都市内遺跡(京都府)、16世紀末~17世紀初頭の大坂城跡(大阪府大阪市)、同じく16世紀末~17世紀初頭の堺環濠都市遺跡(大阪府堺市)、黒崎城跡(福岡県北九州市)や、15~16世紀の首里城跡(沖縄県那覇市)など国内を代表する中世後期の遺跡で確認されていた。
(9)今回の真鍮坩堝の確認は、過去に出土していた東北地方唯一の金箔土器や北東北唯一の犬形土製品と同様に、本州の北端に位置する三戸南部氏と中央(京都方面)との交流を示す証拠となる可能性が考えられる。
(10)また、真鍮制作では沸点・融点が大きく異なる銅と亜鉛を融合させることもあり、高度な特殊技術が求められることから、三戸南部氏が特殊技術を担う工人(職人)を中央から呼び寄せた上で、地元で製品を制作させていた可能性も考えられる。
2 三戸南部氏の金・銀製品等の生産について
(1)これまで聖寿寺館跡では複数の坩堝が出土していたが、今回の分析により、金や銀などの微粒子が付着した坩堝もはじめて確認され、城館内部での金や銀等の加工が明らかとなった。
(2)金や銀などの粒子の付着が確認されたのは口径約5cm、高さ約3cm程度の比較的小型の坩堝で、金粒子が付着したものが8点、銀粒子が付着したものが2点確認された。銀坩堝には銅も確認されたことから、合金をつくるために使用されたものと考えられる。
(3)確認された金や銀-銅合金の坩堝は倉庫や工房と考えられる竪穴建物跡等から出土し、聖寿寺館跡内部全般に分布していた。
(4)金や銀の加工に伴う坩堝は、武田氏の居館である武田氏館跡(山梨県甲府市)や真田氏の居城である岩櫃城跡などで確認されている。
(5)分析では金・銀・真鍮以外にも、坩堝からは銅や亜鉛、鉛、ヒ素など複数の元素が確認されたものもあることから、城館内部で多様な合金を制作していたものと考えられる。
(6)また、これまで、聖寿寺館跡では金メッキが施された製品等が確認されていたが、三戸南部氏が自前で貴金属を駆使した製品の生産能力を有していたことを意味することから、金メッキ製品なども城館内で制作していた可能性が高まった。
(7)室町・戦国期の城館で金・銀・銅・真鍮など複数の貴金属生産の痕跡(坩堝)が単独の城館で確認されるのは、東日本では極めて珍しい事例である。
(8)今回の分析で三戸南部氏が金・銀・真鍮やその他の合金など、多様な貴金属(非鉄金属)製品を生産していたことが明らかとなり、全国的な類例の少なさから東日本の金属生産・加工の歴史を考える上で重要である。当時の戦国大名三戸南部氏の技術レベルや東北地方への金属生産技術の伝播を探る上でも重要と考えられる。
(9)今回の分析で確認された金・銀・真鍮等の坩堝は7月17日(土)から史跡聖寿寺館跡案内所(青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺81-2)で展示し一般に公開する。
※本研究は、JSPS科研費JP20K01111の助成を受けたものです。
【用語等解説】
●坩堝
金属等を入れて加熱し、熔解・高温処理などを行う耐熱性の容器。金属を熔解させて合金も作られた。中世では主に土製で制作されたが、かわらけや陶磁器等を転用する場合もあった。
●聖寿寺館跡の年代
三戸南部氏の室町・戦国期の居館。出土陶磁器から15世紀前半代に13代守行により築城されたと考えられる。天文8年(1539)に焼失したと伝えられ、発掘調査で火災の痕跡が確認されている。 中世陶磁器は約4,600点出土しており、大半が城館最盛期の15世紀末~16世紀前葉のもの。16世紀中頃の陶磁器が6点出土しているが、陶磁器が激減していることからも16世紀中頃には聖寿寺館が廃絶していたことが明らかとなっている。
国立科学博物館:https://www.kahaku.go.jp/
筑波研究施設:https://www.kahaku.go.jp/institution/tsukuba
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