【岡山県】国史跡の津山城跡で石垣修理工事見学会を実施しました。

史跡津山城跡で現在行っている二の丸東側石垣修理工事の現地見学会を開催しました。

 津山城の東側、本丸から一段下がった東側には帯曲輪(おびぐるわ)があります。この帯曲輪を構成するのは全長約65m、高さ7~8mの石垣で、この石垣に膨らみがみられたため、膨らみの部分を中心に石垣の解体修理を行うこととなりました。
 この「二の丸東側石垣」解体修理工事は、これまで津山城で行ってきた石垣修理の中で最大規模の工事です。石垣の解体修理の様子や、発掘調査で新たに発見された成果を見ていただくために、令和2年8月1日(土)に現地見学会を行いました。
 参加者の方は、暑い中にもかかわらず、発掘調査によって新たに発見された石積みや、石列などを興味深く見学し、説明にも熱心に耳を傾けていました。

【二の丸東側石垣の位置】

 津山城の東側は急峻な崖であり、その直下にある宮川が自然の防御線となっています。本丸から一段下がった東側には帯曲輪があります。この帯曲輪を構成するのは全長約65m、高さ7~8mの石垣で、天端は幅5m程度の平坦面があります。この石垣に膨らみがみられたため、膨らみの部分を中心に石垣の解体修理を行うこととなりました。

【解体修理を行う石垣について】
①江戸時代の文献から
 石垣は、現存する最も古い津山城の絵図である正保(しょうほう)の城絵図(1645年頃)にも描かれ、後世の絵図にもその描写があることから、築城時から存在していた石垣であると考えられます。元禄10年(1687)頃のものとされる絵図には、現在ある石垣と同じ様相の石垣が描かれており、上には塀が築かれていたことがわかります。石垣は「高さ四間半」(約8.5m)とあり、その下には「稲荷宮」(現在の千代稲荷)が描かれています。

 文献等からは、明和6年(1769)に「太鼓櫓下」の石垣が長さ10間、高さ5間にわたって崩落し、稲荷宮の玉垣や建造物に被害が及んだという記述がみられます。具体的な位置は不明ですが、「太鼓櫓の下にある石垣」は、今回修理工事を行う二の丸東側石垣のことを指している可能性が高いと考えられます。
②昭和の記録から
 次に崩落の記録がみられるのは約200年後の昭和39年(1964)で、この年の集中豪雨により幅24.5mにわたり石垣が崩落しました。翌40年から41年にかけて石垣は積み直しが行われましたが、積み直しの際に、崩落していない部分との間に段差を残したことから、結果的に膨らみのある石垣の石尻が表出することとなりました。当時の修理工事では、津山城の石垣として使われている凝灰岩(ぎょうかいがん)の他に、部分的に花崗岩(かこうがん)が使用されています。

【石垣上面(天端)の発掘調査成果について】
①石垣北側内側の石積みについて
 北側の部分で、内部に石積みのあることが確認されました(右の写真)。石積みは、解体する石垣から約3m内側に入ったところで、西に面を向けて見つかりました。石積みは全長約9mで、高さ(地表面からの深さ)は一定ではなく、最も深いところで石が6段から7段(2m強)積まれていますが、南側では最上段の1段しかみられないところや、間に石がないところもあります。石積みは北へ続き、北側にある石の階段部分(雁木(がんぎ))につながっています。
 この石積みの目的は何でしょうか?手がかりとなるものの一つに、中段にある細長い石(中央やや右より)があります。これを見ると、その上の石と合わせて、算木積みの様相を呈しているように見えます。算木積みは石垣の隅角部に使われる積み方であるため、この部分がもとは石積みの隅角部であった可能性があります。
 過去にこの石積みが地面から上に見えていたと考えると、今回解体を行う石垣北側は独立した石垣であったと推測されます。その場合、地面の高さは当然現在よりも低くなりますが、最下部で確認された地山が北から南に向け少しずつ上がっていることから、石垣のあった時は現在のような階段(雁木)はなく、北から南に向かってスロープ状に上がっていた時期があった可能性があります。
 スロープを埋めて階段にした時に改修が行われ、このとき石積みは埋められたと推測されます。その時期は定かではありませんが、江戸時代の瓦が埋土の下からも出土していることから、築造時期ではないと推測されます。
②石列について
 解体修理を行う石垣の入隅(内側に折れ曲がっているところ)から南側にかけての天端で石列が確認されました。石列は解体する石垣の内側約1.8mのところで8個が並んだ状態で確認されました。残っていた石列は全長5mで、昭和の修理部分のところでなくなっています。
 石列は、天端面がよく揃っていることから、石垣上に築かれた土塀の基礎になる可能性が考えられますが、今のところ明確な用途は分かっていません。解体する石垣の上面から40㎝程度低くなっているので、本来は土塀に向かって階段状に何段か石が置かれていた可能性もあります。これについては今後の発掘調査により明らかにしていく予定です。
③石垣の南側部分について
 大半が昭和40、41年に積み直しを行った範囲であり、この部分についてはかなり大きめの凝灰岩を裏込めとして使用していることが確認されました。これは、崩落した石のうち、昭和の修理において表面の石(築石(つきいし))として使用しなかった石を石垣の裏込めとして利用した結果と推測されます。花崗岩は、この使われなかった石のところに多く用いられたと考えられます。

 今回の工事はまだまだ続きます。解体作業と併行して発掘調査を行っています。調査を進めるにつれてまた新たな発見があるかもしれません。見学会は工事の進捗状況に応じて今後も開催する予定です。

 

【8月1日現地見学会資料はこちら】
https://www.city.tsuyama.lg.jp/common/photo/free/files/2279/202008031624240021505.pdf

 

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