幹細胞の「自衛反応」に新発見 ~がん治療にもつながる可能性~
千葉大学大学院医学研究院の田中知明教授らの研究グループは、がん抑制遺伝子p53(注1)によって発現が誘導される長鎖ノンコーディングRNA(lncRNA)(注2)「LOC644656」が、DNA損傷などのストレス応答時に幹細胞の分化を促進することを発見しました。さらに、LOC644656の誘導によってがん細胞の化学療法に対する抵抗性が高まるメカニズムを解明しました。この成果は、幹細胞がDNAの損傷にどう対処するかを解き明かすと同時に、がん細胞の治療抵抗性を克服する新たな治療法開発につながる可能性があります。
本研究成果は、2025年5月23日に国際科学誌Nature Communicationsに掲載されました。
■研究の背景
私たちの体の中にある「幹細胞」は、さまざまな細胞に変化できる特別な細胞です(図1左下:ヒト多能性幹細胞)。しかし、放射線や化学物質などによってDNAが傷つくと、この幹細胞はあえてその能力を失い、分化(別の細胞に変わること)することで、傷ついた状態のまま増えないように自らブレーキをかけます。これを、「遺伝毒性ストレス(注3)(DNA損傷)誘導性分化異常(GSMD)と呼びます(図1左下)。GSMDは、損傷を受けた幹細胞がさらに増殖することを防ぎ、生体を保護する「自衛的な」役割を果たしています。しかし、この現象の分子メカニズムはこれまで十分に解明されていませんでした。
■研究の成果
本研究では、DNAにダメージを与えるようなストレス下でのヒト胚性幹細胞(hESC)(注4)におけるlncRNAの役割に注目し、特にp53というがん抑制遺伝子によって誘導されるlncRNAであるLOC644656の機能を詳細に解析しました。主な研究成果は以下の通りです:
1. DNA損傷時の核内蓄積と幹細胞性抑制(図1中央上部): LOC644656は、DNA損傷時にヒト多能性幹細胞の核内に蓄積し、POU5F1(別名Oct4)などの多能性維持に必要な因子と相互作用することで(図1上部:POU5F1との相互作用)、幹細胞の未分化状態を抑制することを発見しました。DNA損傷を受けた幹細胞が未分化状態を維持したまま自己複製を続けると、変異が蓄積し、がん化のリスクが高まります。LOC644656による未分化状態の抑制は、損傷幹細胞の悪性転換を防ぐ「ゲノム監視機構」として機能します。

2. TGF-βシグナル経路(注5)の活性化: 正常状態では、転写抑制複合体NuRD/LSD1がSMAD2/3/4複合体を核内に隔離し、TGF-βシグナルを抑制しています。LOC644656の発現により、この抑制複合体からSMAD複合体が脱離し、リン酸化されたSMAD2/3がSMAD4と複合体を形成して転写活性を獲得します(図1中央上部:NuRD/LSD1からのSMAD複合体の脱離)。
活性化されたSMAD複合体は、多能性維持遺伝子(POU5F1, NANOG等)の発現を抑制する一方で、TGF-βシグナル経路を活性化させ、幹細胞関連遺伝子の転写を促進します(図1右上)。これにより、幹細胞が自己複製能を失い、線維芽細胞様の細胞への分化を促進することを明らかにしました。
NuRD/LSD1損傷幹細胞を分化に導くことで、増殖能の低い成熟細胞に変換し、異常な細胞増殖を抑制します。これは組織の恒常性維持に不可欠な防御機構です。
3. DNA損傷応答の調節とアポトーシス抑制(注6)(図1左下):LOC644656はDNA-PKcsというDNA損傷修復に関わるタンパク質と直接結合し、DNA損傷応答を調節することで、DNA損傷によって引き起こされる細胞死(アポトーシス)から幹細胞を保護する機能も持つことを発見しました。DNA-PKcsとの相互作用によるアポトーシス抑制は、損傷細胞の生存を許容します。この機構は正常組織では保護的に働く一方で、がん細胞では治療抵抗性の原因となる「諸刃の剣」のような特性を示します。
4. がん組織での発現上昇と化学療法抵抗性: がん組織ではLOC644656の発現が上昇しており、肝臓がんや腎臓がんなどでは予後不良(注7)と関連することを確認しました。さらに、実験室での細胞培養やマウスを用いた研究により、LOC644656の誘導によって、がん細胞が抗がん剤治療に対して抵抗性を示し、治療効果が得られにくくなることを実証しました(図1右下)。
■今後の展望
本研究は、腫瘍形成と進行に関する細胞・分子レベルの理解を大きく進展させ、がん治療の新たな標的としての可能性を示しています。特に、LOC644656を標的としたアンチセンスオリゴヌクレオチド療法注8)が、化学療法抵抗性の克服に有効である可能性が考えられます。また、幹細胞生物学における分化制御メカニズムの理解にも貢献することが期待されます。
■用語解説
注1)p53: がん抑制遺伝子の一つで、「ゲノムの守護神」とも呼ばれる。細胞がDNA損傷などのストレスを受けると活性化し、細胞周期の停止やDNA修復、アポトーシス(細胞死)などを引き起こす。
注2)長鎖ノンコーディングRNA(lncRNA): タンパク質に翻訳されない、200塩基以上の長さを持つRNAの一種。遺伝子発現の調節や細胞内のさまざまな生物学的プロセスに関与している。
注3)遺伝毒性ストレス: DNAに損傷を与える化学物質や放射線などによって引き起こされるストレスのこと。がん治療に使われる多くの抗がん剤も遺伝毒性作用を持つ。
注4)ヒト胚性幹細胞(hESC): 初期の人間の胚から得られる未分化の細胞で、体のあらゆる種類の細胞に分化する能力(多能性)を持っている。
注5)TGF-βシグナル経路: 細胞の増殖、分化、アポトーシスなどを調節する重要なシグナル伝達経路。がんにおいては、初期段階では腫瘍抑制的に働くが、進行段階では腫瘍促進的に働くことがある。
注6)アポトーシス: プログラムされた細胞死のことで、損傷を受けた細胞や不要な細胞を除去するために重要な過程である。
注7)予後不良: 病気の経過や結果が良くないことを意味し、がんの場合は生存率が低いことを示す。
注8)アンチセンスオリゴヌクレオチド療法: 特定の遺伝子の発現を抑制するために、その遺伝子のメッセンジャーRNAに相補的な合成核酸(アンチセンスオリゴヌクレオチド)を用いる治療法。
■論文情報
タイトル:p53-inducible lncRNA LOC644656 causes genotoxic stress-induced stem cell maldifferentiation and cancer chemoresistance
著者:Ai Tamura, Kazuyuki Yamagata, Takashi Kono, Masanori Fujimoto, Takahiro Fuchigami, Motoi Nishimura, Masataka Yokoyama, Akitoshi Nakayama, Naoko Hashimoto, Ikki Sakuma, Nobuyuki Mitsukawa, Yusuke Kawashima, Osamu Ohara, Shinichiro Motohashi, Eiryo Kawakami, Takashi Miki, Atsushi Onodera, Tomoaki Tanaka
雑誌名:Nature Communications
DOI: 10.1038/s41467-025-59886-w
このプレスリリースには、メディア関係者向けの情報があります
メディアユーザー登録を行うと、企業担当者の連絡先や、イベント・記者会見の情報など様々な特記情報を閲覧できます。※内容はプレスリリースにより異なります。
すべての画像