タイミング学習における身体部位特異性
—速球と遅球の効果的な打ち分けを可能にする脳の仕組み—
つまり,脳は,課題標的の統計分布を学習し,最も成功確率の高くなる応答を計算しています.日常の課題標的 (例:投球/打球の速度やコース) に多様な統計分布が存在し,それらを学び分ける必要があります.
本学情報学部の宮崎真研究室 (筆頭著者:松村圭貴・2022年3月情報学専攻修了) は,英国・ノッティンガム大学とブラッドフォード大学との共同研究により,タイミング課題中のベイズ推定における「身体部位特異性」を明らかにしました.
すなわち,2つの標的タイミング (≈ 速球/遅球) の分布に対して,それぞれに異なる身体部位を用いて応答することにより,それらの分布を学び分けることが可能になることを発見しました.さらに,人差し指/中指のように近接した身体部位よりも,手/足のように遠隔の身体部位を2つの事前分布に対応づけると,より早く2つの分布の学び分けが可能となることを明らかにしました.
この「身体部位特異性」に基づけば,たとえば “速球に対しては足,遅球に対しては手” といったように,球種に応じて異なる身体部位でタイミングを刻めば,各球種に適したタイミングの学び分けが可能となることも予想されます.
このように,本成果は,スポーツ技能の向上法の提案やスポーツ選手の優れた技能の秘訣を解析するための基盤知見となることが期待されます.
この成果は、ネイチャー・パートナー・ジャーナル (npj) の学習科学専門誌、npj Science of Learningに2024年5月2日に刊行され、以下のサイトで無料で公開されています.
https://www.nature.com/articles/s41539-024-00241-x
【ポイント】
・ 脳は,課題標的の統計分布を学習し,最も成功確率の高くなる応答を計算している
・従来の研究の多くでは,単一の分布のみを参加者に経験させて,その学習の状態を調べてきた
・しかし,日常の課題では,標的に多様な統計分布が存在する (例:投球/打球の速度やコース)
・本研究は,タイミング課題で,短時分布 (速球),長時分布 (遅球) に対して,異なる身体部位を用いて応答す
ると,それら2つの事前分布を学び分けることが可能になること (身体部位特異性) を明らかにした
・さらに,人差し指/中指のように近接した身体部位よりも,手/足のように遠隔の身体部位を2つの事前分布に
対応づけると,より早く2つの分布の学び分けが可能となった
・本成果は,スポーツ技能の向上法の提案やスポーツ選手の優れた技能の秘訣を解析するための基盤知見とな
ることが期待される
【研究背景】
・近年,私たちの脳は,ベイズ推定1を行っていることが明らかになってきました.つまり,脳は,課題標的の
統計分布 (例:投球/打球の速度やコースの平均と分散) を学習し,最も成功確率 (ヒット率) の高くなる応答
を計算しています.本研究の代表者である宮崎真教授は,タイミング課題でベイズ推定が行われていることを
世界で初めて明らかにしていました2.
・従来の研究の多くでは,単一の分布のみを参加者に経験させて,その学習の状態を調べてきました.また,
複雑な分布を学習するためには,より多くの試行数を要することが報告されてきました.
・しかし,球技で対戦相手が複数の球速やコースを使い分けてくるように,日常の課題では,標的に多様な統
計分布が存在します (多様性の問題).つまり,日常生活のなかでベイズ推定を効果的に利用するためには,
複数の分布を学び分ける必要があります.
・本研究では,リズム動作の分析から,身体部位ごとに異なるタイマーが存在することを提唱した研究報告3 な
どの先行知見に基づき,タイミング課題における「身体部位特異性」の存在を予想しました.すなわち, 2つ
の異なる事前分布のそれぞれに対して異なる身体部位を割り当ててタイミング応答をすれば,それら2つの事
前分布の学び分けが可能になるのではないかと考えました.
・以上の仮説を検証するために,次のような心理物理学的実験を実施しました.
図1.実験方法.(a) 1試行の刺激と応答の流れ.TS:刺激時間間隔,TR:応答時間間隔.(b) 刺激時間間隔の分布:短時分布 (速球),長時分布 (遅球).(c) 刺激位置 (右/左) と刺激時間間隔の分布 (短時/長時) の割当て.ここでは,右側の刺激に短時分布,左側の刺激に長時分布を割り当てた場合を例示.
【方法】
・本研究では,5つの本実験と2つの準備実験,計7つの実験を実施しました.
・各実験に8名 (計56名) の健常な男女 (18–26才) が参加しました.
・ディスプレイの注視点の左右のいずれかに3つの連続刺激 (S1→S2→S3) が呈示されました [図1 (a)].試行
内で,S1→S2とS2→S3の刺激タイミング (TS) は同一でした.参加者は,S1→S2のTS からS3の出現を予
期して,それと同時になるように応答しました.
・各試行のTSは,短時分布 (速球) [424–988 ミリ秒 (平均 712ミリ秒)],長時分布 (速球) [1129–1694 ミリ
秒 (平均 1412ミリ秒)] のいずれかからランダムに選択されました [図1(b)].
・短時分布と長時分布は,右側の刺激と左側の刺激のいずれかに割り当てられました [図1(c)].
・各参加者は,タイミング課題を640試行 (40試行/セッション ´ 16セッション) を行いました.
・S2から応答までの時間間隔 (応答時間間隔, TR) を計測し,解析対象としました.
【結果】
2つの分布 (短時/長時) の違いに依らず,利き手の人差し指のみで応答した場合,参加者は,それら2つの分布を学び分けることができませんでした [図3(a)].
しかし,分布の違いに応じて利き手の人差し指/中指で応答した場合,最初の160試行では2つの分布を学び分けることができませんでしたが,その後,それらの分布を学び分けることができました [図3(b)].すなわち,「身体部位特異性」仮説が支持されました.
さらに,手/足のように,2つの事前分布に対応づける2つの身体部位の差異を大きくすると,最初の160試行から2つの分布を学び分けることができました [図3(c)].
図3.実験結果.(a) 刺激時間間隔の分布の違い (短時/長時) に依らず,利き手の人差し指のみで応答した場合 (論文中実験1).(b) 分布の違いに応じて利き手の人差し指/中指で応答した場合 (実験2), (c) 分布の違いに応じて右/左の人差し指と左/右の足で応答した場合 (実験4).そのほか,右/左の人差し指 (実験3) や利き手の人差し指と同側の足 (実験5) で応答した場合も,1-160試行から2つの分布を学び分けることができた.
【研究成果の意義と今後の展望】
近年,私たちの脳がベイズ推定を行っていることを示す知見が蓄積されてきました.本研究の成果は,それらの知見を,多様な事象の生じる日常環境での人間行動へと拡張し,教育や医療への応用へと結びつけていくための基盤の一つを提供するものといえます.
特に,本成果は,スポーツ技能の向上法の提案やスポーツ選手の優れた技能の秘訣を解析するための基盤知見となることが期待されます.たとえば速球に対しては足で,遅球に対しては手で,といったように,球種に応じて異なる身体部位でタイミングを刻めば,各球種に適したタイミングの学び分けが可能となるかもしれません.
今後,次のような研究によって本成果を発展させていくことを展望しています.
▷ バーチャルリアリティを用いて,より現実のスポーツに近い環境で「身体部位特異性」の有効性の検証
▷ スポーツの経験やスキルレベルの違いによる「身体部位特異性」による複数の標的分布の学習の速度や到達度の違いの検証
▷ 自閉スペクトラム症 (ASD) を有する人達を対象とした「身体部位特異性」の検証:ASD者の特徴の一つとしてスポーツの苦手があり,標的分布の学習に不全があることが報告されている4, 5
▷ 「身体部位特異性」に関与する脳部位の特定:補足運動野,小脳,大脳基底核といった脳部位は,タイミング処理に関与し,さらに体部位再現性 (身体地図) も有しており,有力な候補として挙げられる
【引用文献】
1. Körding & Wolpert. Nature 427, 244–247 (2004).
2. Miyazaki, Nozaki & Nakajima. J Neurophysiol 94, 395-399 (2005).
3. Ivry & Richardson. Brain Cogn 48, 117-132 (2002).
4. Karaminis, Cicchini, Neil, Cappagli, Argten-Murphy, Burr & Pellicano. Sci Rep 6, 28570 (2016)
5. Wada, Umezawa, Sano, Tajima, Kumagaya & Miyazaki. J Autism Dev Disord 53, 378-389 (2023).
【論文情報】
掲載誌:
npj Science of Learning
出版元:
Nature Publishing Group (英国)
論文タイトル:
Body-part specificity for learning of multiple prior distributions in human coincidence timing
著者:
松村圭貴 (静岡大学 大学院総合科学技術研究科情報学専攻, 2022年3月修了)
Neil W. Roach (ノッティンガム大学, 英国)
James Heron (ブラッドフォード大学, 英国)
宮崎真 (静岡大学 学術院情報学領域)
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