東急株式会社には、チャレンジする企業風土を醸成することを目的にした「社内起業家育成制度」があります。この制度では部署や年齢・役職にかかわらず、新規事業を提案でき、社内ベンチャーとして自らが立ち上げ・推進可能です。この制度の第６号案件として発案されたのが、定額制回遊型宿泊サービス「TsugiTsugi（ツギツギ）」です。

　「TsugiTsugi」とは、“「ただいま」と帰る場所をツギツギと巡る、旅するような暮らし方”をコンセプトにして、全国１００以上の宿泊施設から、その日の都合やその時々の気分に合わせてお好きな場所を選び、定額で期間内は自由に宿泊できるサービスで、２０２１年４月より計４回の実証実験を行ってきました。２０２３年５月に、当社における正式事業化が決定し、現在は通年でのサービス提供を行っています。

新規事業を生み出し、ヒットさせることは簡単なことではありません。本ストーリーでは、「TsugiTsugi」の発案者でプロジェクトリーダーの川元一峰に、サービスの誕生秘話と今後についてお話を伺いました。

川元　一峰

2011年　東京急行電鉄株式会社（現　東急株式会社）入社

ホスピタリティ事業部　事業戦略グループ　主査

●企画、起案の経緯

２０１６年～２０１７年「きっかけは税制改正、背中を押した地方への憧れ」

　私は東京生まれ東京育ちで、小学生の頃などは夏休みに帰省する田舎がある友人をうらやましく思っていました。東京以外の場所での暮らしや地縁に憧れがあり、大人になってからも、今の仕事を続けながら地方に移住できたら面白いし、可処分所得も上がるんじゃないかと考えていました。まだテレワークという言葉が「新幹線内などの通勤時間で仕事をする」という意味だった２０１６年、経理の仕事をするなかで、平成28年度税制改正のニュースを知りました。

　会社から個人に支払われる交通費の非課税上限額（月額）が15万円に拡大されるというものでした。調べたところ、東急本社のある渋谷からだと限度額内で長野県の上田まで行けて、２０１５年に金沢駅まで開通したばかりの北陸新幹線の新車両は全席にコンセントが付き、トンネルでもWi-Fiが使える仕様になっていたのです。

　ということは、今後は地方に住んで通勤時間に仕事をする人が増えるんじゃないか、そうなると働く場所や時間の制約がなくなるんじゃないかと考えました。そして、地方に地縁の無い自分だからこそ「全国を巡り、各地に地縁を築きたい」と思い、「旅するように暮らす」をコンセプトにした事業案で、社内起業家育成制度に応募したのです。

　当時はお試し移住をきっかけに東京圏就業型移住を推進・支援するサービスを検討していましたが、マーケットサイズやマネタイズの難しさから落選。一方、着眼点や発想は面白いと言われたこともあり、完全に諦めはせずに業務外で検討を続けていました。

２０１８年～２０１９年「人事異動と新たなビジネスモデルへの挑戦、そして挫折」

一度落選したビジネスモデルを業務外でブラッシュアップしつつ、本務側では２０１８年にグループ内のケーブルテレビ局に出向し、事業構造改革に携わりました。ネットフリックスやアマゾンプライムなどのＯＴＴサービスが急成長する中で、ケーブルテレビ局の構造改革が始まったのです。

　今や当たり前の“サブスク”ですが、当時はまだ月額課金制ビジネスモデルと呼ばれていました。事業構造改革の一環としてサブスク型のビジネスモデルを学ぶうち、このモデルを自らの新規事業に活かせないかと考えるようになり、「全国の空き家を活用した泊まり放題サービス」として会社へ提案をし、一次選考を通過することができました。

　とはいえ、空き家の利活用について何も知らない私は、まず情報収集に時間を費やすことになります。NPO法人の空家・空地管理センターが主催するセミナーに参加してみたり、河口湖周辺の空き家になってしまった旧別荘を管理する会社にお話を伺いつつ、実際に空き家を所有されているオーナー十数人にも実状やお考えを聞いて回ったりしました。ご紹介や知人を辿って空き家のオーナーさんを見つけ、お話を伺うことでさえ非常に大変で、お会いする前から、これを拡大し事業にできるのかとても不安になったのを覚えています。

「現状有姿では利活用が難しい」空き家

　結論から伝えると、空き家ビジネスは物件自体の老朽化や権利問題、所在不明のオーナーなど課題が山積し、新規事業で踏み込むにはハードルが非常に高く、長い停滞期を迎えました。中でも、実は空き家オーナーたち自身に「空き家活用への大きな心理的ハードル」があるとわかったことが一番の課題でした。大量の荷物の整理、親族への説明、そもそも遠隔地の空き家へ赴くことさえ「すべてが面倒でやりたくない」という想いがリアルな本音でした。

　「需要もさることながら供給さえ不確か」という致命的な課題から、いつの間にか「法人向けの社宅シェアサービス」のようになっていた時期さえありました。

２０２０年「宿泊施設の抱える課題解決と自らのニーズを叶えるサービス構築」

日々、TsugiTsugiのことを検討しつつも、なかなか前に進めない私は再度人事異動を迎えます。業界全体がコロナ禍の大打撃を受けるなか、子会社の東急ホテルズ（現　東急ホテルズ＆リゾーツ）にも構造改革が求められ、出向したのが２０２０年のことです。

　構造改革を進めていたある時、東急ホテルズの社長（当時）から「新しい稼ぎ方を提案してほしい」というメールが入りました 。役員宛のメールだったのですが、私もccが入っていて。その瞬間でした、「空き家ではなくホテルで実現できるのでは」とピースが噛み合い、その足で社長室に行って提案すると、「いいね、すぐやろう」と。翌月には東急の社長の前でプレゼンをして、数か月後にTsugiTsugiの先行体験を実施することが決定しました。

２０２１年～２０２２年「２年間に渡る実証実験での学びとアライアンス組成」

コロナ禍でリモートワークが浸透したこともあり、２０２１年４月の先行体験では大きな手応えを感じました。すぐに次、またその次と実証実験を繰り返す中で、利用者の声からサービス改善を繰り返し、プランや提携施設・サービス拡張などを行いました。

　利用者の声は多岐に渡りましたが、全国を巡るために必要な長距離移動運賃は大きな負担に見えました。あくまで移動費はTsugiTsugiでの宿泊とは切り離されているため不満としての声はありませんでしたが、継続して利用してもらうためにも移動費に係るサポートが重要なポイントであることは明白でした。また、同伴者１名無料というサービス特性上、配偶者やパートナーと利用する層が多く、共働きで同時に客室内でオンラインMTGが発生してしまうケースなどもあり、ワークプレイスの確保もサポートしたいと考えました。さらに、私が当初目指した「全国を巡り、各地に地縁を築く」ためにはホテルという宿泊機能だけでなく、ローカルとの結びつきが必要不可欠で、それらを求める声が想像以上に多く挙がりました。

「宮古島のホテル客室で働く」TsugiTsugiユーザー

　すべてを東急という会社で解決しようとすることは現実的でないため、サービス改善に繋がるようなサービスを持つ企業をいくつも訪ねました。多くの企業と会話してみると、コロナ禍がもたらしたライフスタイルの多様化に会社として寄り添おうと新たな施策やサービスを実施していることが分かります。しかし、単体では顧客に届けきれないといった課題を皆が抱えていることがよくわかりました。そこでTsugiTsugiを軸に各企業のサービスを組み合わせることで「旅するような暮らし」として一緒に届けませんかと話して回ります。

　結果として、東急グループ外の多くの宿泊施設に加え、ANAさんやLCCのピーチさん、シェアオフィス事業も運営されている日経新聞さんらの事業者、また各地のDMO（観光地域づくり法人）とも業務提携することになるなど、顧客起点でのサービスアップを実現できるアライアンスも出来ました。

　一方で、インタビューやアンケートで利用者の声をお聞きする中で、TsugiTsugiというサービスをお客さまに直接触っていただける時間は“施設選び～予約完了まで”しかないこともよくわかりました。ジャーニー的には、その後実際に施設に訪れ、施設側のホスピタリティやサービスに触れることになるのです。しかし、旅行においてこの「予約」という段階は、お客さまの離脱を最も招きやすい重要な段階です。

　通常の宿泊予約において、どこか行きたいなと思い立ち、じゃらんや楽天トラベルといったＯＴＡサイトを訪問してみると、数十万件の施設、食事の種類など数十に渡るプランがあり、比較し選ぶという行為自体が億劫で離脱を招きます。また宿泊者情報の入力やクレジットカードでのオンライン決済などちょっとの手間で離脱してしまうケースも多く、いかに予約を簡単にスピーディに済ませる仕組みかが重要でした。

　TsugiTsugiは東急が厳選した施設だけなので、行きたいエリアさえ決まれば施設は比較的に悩まず絞り込めますし、宿泊プランも１プランなので悩みません。加えて、個人情報入力やクレジットカード決済は既に済んでいるため、情報入力が不要で１０秒で予約完了できる仕組みを構築しました。この仕組みを整えるための2年間だったように思えます。

２０２３年「オフピーク送客という独自の価値と正式事業化」

実証実験の２年間で変わったことと、気づいたことがありました。それは、宿泊事業者を取り巻く環境です。コロナ禍で稼働率を優先し、安価で販売をしていた多くの事業者がADR（販売した一室あたり平均単価）を優先し始めました。業界の人手不足もあいまって、単価上昇を狙うようになりました。ただ、宿泊事業というものはあくまで装置産業ですので、いかに装置を効率よく活用し利益を最大化するかが肝要です。販売単価を上昇させるだけでは、利益の最大化は難しいのです。あくまでADRは“売れた”部屋の平均単価でしかないのですから。

一方で、気づいたこととして、「TsugiTsugiはオフピーク送客に最大の強みがある」ということです。宿泊施設は事業構造上、曜日偏重や季節変動性があり繁閑ギャップが生じやすいモデルです。どうしても生じてしまう未稼働客室をどう活用するべきかという大きな課題に対して、本サービスの利用者は旅好きで、曜日やシーズンを問わず全国を回遊する稀有で貴重なお客さまであることがわかったのです。また仕事をしながら旅するユーザーが多いこともあり、予約リードタイムが短く直前期の客室在庫が埋まり易いのです。仕事の予定って結構直近で決まり易いので、来週の火曜あたり行けそうだな、今週の木曜なら近場でいけちゃうなとか。

この平日稼働や直前期での予約率が、提携する宿泊施設の課題解決に寄与するということが示されたのです。加えて、そんな貴重な新規顧客とのタッチポイントとなることで宿泊施設に対し新たな需要の獲得に繋がるのです。そんなこともあり、コロナ禍が落ち着き、ホテル需要が戻ってきたタイミングであっても、宿泊施設からのニーズも強く、当社としても事業の独自価値が確認できたため、５月に正式事業化に至りました。

コロナ禍を経て大きく変化したライフスタイルも、旅のスタイルも元に戻すのではなく、ツギのスタイルに。

　元々は30連泊や60連泊という長期連泊型でスタートしたTsugiTsugiですが、ユーザーニーズを深ぼることで、日常の延長としての旅行を重要視するようになりました。もともと非日常感の強い旅行ですが、コロナ禍で多様化したライフスタイルも相まって、観光を兼ねたリモートワークや、気分転換でのホテルステイなど日常の延長として楽しまれる方が急増しています。そのため、「TsugiTsugi」が正式に事業化した今年の５月には、より気軽に本サービスを利用してもらえるように、30日間で2泊、お好きなタイミングで宿泊できる“えらべる２”プランも新設したのですが、非常に人気が高く事業規模が飛躍的に拡大しています。ユーザーの需要に応えるためにも、これまで以上に多くの宿泊施設とも提携を開始し、需給共に更なる拡大を目指しています。

また、日本経済新聞社と共同で販売する法人向けプランも事業化を機に販売を開始しました。ライフスタイルだけでなく、旅するように働くという新たなワークスタイルにも東急・日経一丸となって積極的にトライしていきます。

　最後に、宿泊業界・観光業界ではコロナ禍で業界が傷んだ分だけ、コロナ前の2019年以前が輝いて見られますが、「オーバーツーリズム」を筆頭に、当時も地域・事業者共に課題だらけでした。今後を考える中で、僕らは平日や閑散期送客が得意なこともあり、オフピークであっても来てくれる旅行者を増やすことが地域や事業者への貢献だと考えています。大型連休などの計画を練りに練った豪華な旅行ももちろん良いですが、日常の延長としてフラっと出掛ける旅の良さも多くの方に知っていただきたいです。