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島根県松江市の和菓子舗「彩雲堂」、明治から続く創業150年の歩みと和菓子への変わらぬ思い  

和菓子

#和菓子  #創業ストーリー  #創業エピソード

2024年5月14日 15時00分 株式会社 彩雲堂

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プロフィール
初代・山口善右衛門
嘉永5年(1848年)平田・中之島(現出雲市平田町)の寺子屋と麹屋をする裕福な家の長男として生まれる。幼名は善之助。幼い頃から父について、書を習い書物にも親しみ、麹屋を手伝っていた。この経験がのちに松江に出て菓子商いとなる素地を作った。明治初頭、父と同じように事業を始めるために松江に出る。最初は飴を作っている親戚を頼って修行を積み、その後、不昧公も好んだという金平糖の製造と販売に取り組んだ。金平糖は、江戸の中頃まで、大名の茶菓子だったが、明治になると贈答用や来客用の菓子として使われるようになっていた。これで大きな利益を得て、事業の基盤を作った。明治7年、26歳の時に彩雲堂を創業。「彩雲」とは中国・唐の詩人李白の漢詩「早発白帝城(つとに白帝城を発す)」から名付けられた。朝焼け雲、または美しく彩られた雲のことをいうが、その雲がたなびく中に出発するという名をつけ、現在にいたっている。自身も努力家で勉強家であった善右衛門の周りには、博識者も多かった。「どうだら会」の不昧公没後100年の菓子復活に賛同した。不昧公の没後、製法も途絶えていた「若草」の研究を重ねて、見事復活させた。
3代目・山口恒雄
大正14年(1925年)生まれ。2代目の父とともに第二次世界大戦で出征。その後シベリアでの抑留を経て日本に帰国。これまで銀行員だったが、復員後本格的に父とともに彩雲堂の再建を目指した。経済や社会情勢の変化を巧みに読み取り、頭脳明晰だった恒雄は、旅行需要の波にのり、「若草」を年間商品として売り出した。若草の原料は餅、冬になると固くなる。改良を重ね、どの季節に食べても柔らかな弾力のある若草となった。恒雄が中心となって開催にこぎつけた平成元年(1989年)4月23日〜5月14日に松江で行われた全国菓子博覧会は、来場者数73万212人の大成功を収めた。松江の和菓子職人による工芸菓子「ヤマタノオロチ」は一際注目を集め、京都・金沢・松江と日本の三大和菓子どころとして大きくその名を印象付けた。菓子商・菓子職人の地位向上にも尽力した。
商品・サービス情報
代表銘菓「若草」
彩雲堂の代表銘菓。島根県奥出雲町産のもち米「仁多米」を、工場にある石臼で挽き、求肥に仕上げ、周りに若草色にそめた寒梅粉と砂糖をまぶして作ります。松江藩7代藩主松平不昧の春の和菓子として用いられたものを、初代山口善右衛門が復活させ、以来100年以上作り続けております。島根県、松江市のお土産和菓子として、また春の茶席菓子として長年にわたりご愛顧いただいています。
出雲あんぱん
出雲大社にある神門通りアエル店で製造しているあんぱんです。
2015年の出店の際に、餡をより広い世代に伝えたい、という思いであんぱん専門店としてスタート。
2020年のコロナ期間中にリブランディングし「出雲あんぱん」という名称でシリーズ化。代表銘菓「若草」の求肥とこし餡を合わせた「求肥とこしあん」、銘菓「伯耆坊」に使われる粒あんを合わせた「粒あんぱん」、薯蕷饅頭「朝汐」に使われる皮むき小豆餡を使用した上品な「朝汐あんぱん」、ぜんざい発祥の地出雲ならではの「ぜんざいぱん」の4種をはじめ、季節の餡を使ったあんぱんをご用意しています。
和菓子屋が作るあんぱん、というコンセプトで、餡に合わせてパン生地を選定しており、パン屋さんとは逆のアプローチで商品づくりをしています。
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